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- 浦上・平和公園
原爆犠牲者の冥福と平和を願う祈りの空間
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。 「平和祈念像」 長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は&…
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- 浦上・平和公園
悲しみの原点、グラウンド・ゼロ
昭和20年(1945)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968)に建立された黒御影石の碑が立てられており、園内には被爆当時の地層も残されていますが、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガ、3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没しています。 原爆の…
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- 出島・ベイサイド
鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口
国指定史跡「出島和蘭商館跡」 徳川幕府の命により築造された人工の島、「出島」。 1636年に完成し、はじめはポルトガル人が居住、1641年にオランダ商館が置かれ、その後約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口でした。明治期にその役割を終えると、周囲の埋立てが進み独特な扇型は姿を消してしまいましたが、1951年、長崎市が出島の復元整備事業に着手しました。 現在までに…
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- 思案橋・丸山
往来する者が大いに「行こか戻ろか」と思案したというので思案橋という名がついたといわれています。
日本が鎖国となり、長崎は唐蘭易で賑わいましたが、この橋も丸山をひかえ地元はもちろん諸国往来の人達で利用おびただしく、土橋から木の橋へ、木の橋から屋根のついた木廊橋へ変わり、また、もとの木橋になったりと変転を重ねました。 思案橋という名はいつからついたのかわかりませんが、丸山の繁盛と深い関係があることはまちがいないといわれます。 木橋は火事で明治8年(1875)に石橋になり、大正3年(1914)…
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- 東山手・南山手
長崎港の大パノラマを見下ろす絶景、南山手の丘に位置する長崎ロマンの地
「グラバー園」は、 国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元したものです。 園内は長崎独特の坂の地形のため、動く歩道、エスカレーターを設け、壁泉・石畳による回遊道路をめぐらし、異国情緒あふれる観光名所としてたくさんの人々に親しまれ、年間100万人以上の観光客が訪れています。 長崎港、稲佐山をはじめとする緑したたる山々…
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- 東山手・南山手
異国情緒あふれる東山手に位置し、外国人居留地一帯の坂道
東山手洋風住宅群など、異国情緒あふれる東山手に位置しており、近隣には日本で最初の女学校である活水学院・洋風住宅7棟があります。出島に住むオランダ人の影響か、開国後も長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。現在は、主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ…
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- 深堀・香焼・伊王島・高島
- 野母崎・三和
日本の近代化を支えた産業遺産
小さな海底炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。 最盛期の昭和35年(1960)年には約5300人もの人が住み、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に。島内には小中学校や病院などが完備され生活を全て島内で賄うことができ、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていまし…
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- 新地中華街・浜の町
日本三大中華街。長崎中華を食べるならここ!
唐船専用の倉庫を建てるために埋め立てられた新地でしたが、今では日本三大中華街のひとつとなっています。 東西南北全ての入り口に中華門が立つ、縦横あわせて約250メートルの十字路で、通りには中華料理店等が軒を連ねています。 冬のランタンフェスティバルでは赤色のランタン(中国提灯)が通りを彩り、異国情緒ただよう幻想的な世界へと街を彩ります。
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- 浦上・平和公園
原爆の脅威を伝える一本柱鳥居
日本二十六聖人殉教地へと続く浦上街道沿いにある明治元年(1868)創立の山王神社は、爆心地から南東約900mの場所の高台にあり、原爆の被害を受けました。社殿は跡形もなく崩れましたが、昭和25年(1950)に再建され今に至ります。 山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がありますがもともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけが片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのです。左片…
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- 風頭・寺町・中島川
土佐の浪人 坂本龍馬が同志と組織した日本初の商社「亀山社中」跡に建つ記念館
「亀山社中」は、慶応元年(1865年)薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同志により設立された結社です。徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、船の回送や運輸業、銃器のあっせんなどの商号活動も行い、「日本初の商社」といわれています。 幕末頃、亀山で「亀山焼」という焼物が一時焼かれていましたが廃窯となり、その窯ではたらいていた人々の住居跡を根城としていました。亀山社中の…
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- 東山手・南山手
孔子廟は、色あざやかな中国華南と華北地方の建築様式が合体した中国本廟の伝統美きわまる彩り豊かな極彩色の廟宇です。
元来、孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりで、明治26年(1893)中国清朝政府と華僑によって建造されました。 琉璃瓦・青白石製欄干・龍紋様の御道石・孔子像、72賢人石像などはすべて中国から取り寄せられたものです。併設の中国歴代博物館は、2階には北京故宮博物院提供の宮廷文化財を、3階には中国歴史博物館提供の出土文化財を一堂に展覧しています。
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- 浦上・平和公園
被爆校舎を保存、利用した平和祈念館
原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、1400余名の児童と職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた長崎市立城山小学校。被爆以前の校舎は白亜の偉容を誇る、それは美しい3階建ての校舎だったのだという。 しかし、戦争がはじまり度々空襲に見舞われるようになると、校舎には迷彩色が施され校舎の一部は三菱兵器製作所の給与事務に使用された 校長室で会議中に被爆し奇跡的に助かった当時の荒川秀男教頭先生…
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- 浦上・平和公園
原爆の脅威と平和の尊さを体感できる施設
昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。 広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し約15万人の人々が命を落としました。 この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史、そして核兵器のない平和希求までがストーリーを持たせわかりやすく展示されています。 被爆直後と現在の長崎の風景写…
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- 風頭・寺町・中島川
長崎港を一望できる公園に威風堂々と建つ
建立日は、平成元年5月21日、製作者は長崎市在住の彫刻家、山崎和國氏。「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけで全国の有志の募金により建立されました。 周囲には龍馬を写真撮影した上野彦馬の墓や、亀山社中跡など龍馬ゆかりのものが散在しており、寺町通り禅林寺、深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道は「龍馬通り」と呼ばれ、長崎市の歴史探訪路となっています。
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- 風頭・寺町・中島川
寛永6年(1629)、福州地方の唐人たちの希望で、唐僧超然が招かれ建立されました。
興福寺が南京地方出身者の建立によるもので南京寺と呼ばれるのに対し、崇福寺は福州寺と呼ばれます。 市内鍛冶屋町にあり、竜宮門を思わせる三門や珍異奇巧を極めている第一峰門があります。 殿堂内の仏像仏具類は、いづれも中国人名匠の手によるもので、明朝末期文化の縮図といえるものです。 第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定され、その他にも国指定重要文化財5、県指定有形文化財4、市指定有形文化財10をもつ文化財…
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- 新地中華街・浜の町
中国文化との出会いの地
寛永12年(1635)から中国との貿易を独占的に行っていた長崎港。来航した唐人(中国人)達は、はじめ長崎市中に散宿していましたが、密貿易が増加したため幕府は元禄2年(1689)、鎖国後の出島と同じように、唐人達を収容する唐人屋敷を建設しました。現在は四堂のみが修復改築され残されています。 日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけでしたが、唐人達は唐寺などへ出掛けていたので、長…
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- 風頭・寺町・中島川
竹ン芸で知られる龍馬ゆかりの神社
「古いお宮を若宮」と親しまれる若宮稲荷神社は、出来大工町乙名(おとな)・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられている。 また、元文元年(1736)に長崎奉行・細井因幡守安明が参道を開削し、社殿を改築したのをはじめとして代々の奉行、人々の尊崇を集めてきた。現在は、毎年10月14、15日の例大祭に…
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- 新大工町・鳴滝・諏訪神社
長崎市民から“おすわさん”と親しまれている氏神様です。
創建は寛永2年(1625)で、当時はキリスト教が広まり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されることが多く、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営したものです。そして、寛永9年(1632年)青木が初代宮司になり、同11年(1634)から祭礼を行うようになりました。 現在も続くこの秋の大祭・長崎くんちは、豪華絢爛・異国情緒たっぷりな祭りとして日本3大まつりの1つに数えられています。 …
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- 思案橋・丸山
丸山町の氏神様を祀る天満宮
この天満宮は、元禄13年(1700)創建の丸山町の氏神様で、昔から“身代り天神”と呼ばれ親しまれてきた。“身代り”と呼ばれるのは、創建者の安田次右衛門が、ある夜何者かに襲われ左脇腹を槍で刺され倒れたがどこにも傷がなく、その代わりに自邸の祠の天神像が左脇腹から血を流していたことによるのだという。また、丸山の遊女達も身代を“みだい&rdq…
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- 野母崎・三和
軍艦島の全盛を物語る資料を多数展示
世界文化遺産に認定された、炭鉱の島「軍艦島(端島)」の地下600mより深い海底での緊張感あふれる当時の作業様子や人々の生活風景など、軍艦島の歴史や文化、日本の近代化に貢献した役割など、他に類を見ない多様な魅力を、パネル展示や映像などで体感できる施設です。 ムービーコーナーでは、「軍艦島・明治日本の産業革命遺産」を最新の4K映像でご覧いただけます。