やまざとしょうがっこう 山里小学校

爆心地から約600mで被災し約1,300人の児童の命が奪われた

浦上地区にある現役の小学校ですが、戦時中、爆心地から北へ約600mという近距離にあったため、原爆により鉄筋コンクリート3階建て校舎1、2階を残して全焼しました。校区が爆心地帯であるだけに児童被害が大きく、約1581人のうち約1300人の尊い命が奪われました。当時夏休み中だったため、児童の多くは自宅で死亡したと推定されています。

現在、校内には原爆資料館のほか被爆遺構となっている防空壕跡が保存されています。「あの子らの丘」と呼ばれる広場もあり、恒久平和を願うピースゾーンとなっています。戦後、平和教育が継続されて定着し、浦上地区に点在する被爆遺構を含めて学習を推進、平和の尊さを後世に伝えるバトンを渡し続けています。

毎年8月9日の原爆死没者慰霊祭で歌われる「あの子」という歌(作詞:永井隆博士、作曲:木野普見雄)は原爆で犠牲になった児童を悼む思いを込めて作られた歌です。

校門下の坂道には、春になると桜並木が見事な花を咲かせ、行き交う人を和ませてくれます。この桜は永井隆博士から寄贈されたもので、この坂は「永井坂」と呼ばれています。
※校内を見学する際は、事前に問合わせ・申し込みが必要です。

エリア
長崎市中心市街地エリア(平和公園・稲佐山・グラバー園など)
カテゴリー
平和
旅のテーマ
平和を学ぶ

もっと詳しく知ろう! 山里小学校

  • 教職員や児童が避難した防空壕跡-0

    校舎裏手にある防空壕跡

    教職員や児童が避難した防空壕跡

    戦時中激しい空襲から命を守るため、校内の崖には18もの壕が掘られ、学校や付近に住む人々の避難場所となっていました。
    その防空壕跡が現在は被爆遺構となっています。
    原爆投下当日も新しい防空壕を掘る作業をしていた多くの先生方が、この崖に叩き付けられ亡くなりました。
    また、熱線や放射線を浴びて負傷した教職員や児童、付近の人々が防空壕へ避難しましたが、多くの人々がこの中で亡くなりました。
    被爆時は運動場だった現在の校舎裏手の崖にのみ、その防空壕跡が残されています。

  • 犠牲者に慰霊碑『あの子らの碑』-1

    犠牲者に慰霊碑『あの子らの碑』

    正門を入った左手に“あの子らの丘”と呼ばれる小高い丘があります。
    永井隆博士は山里小学校の児童の手記をまとめ『原子雲の下に生きて』を昭和24年(1949)に出版しましたが、執筆した子ども達に相談し、原稿料の一部を出し合って造られた慰霊碑『あの子らの碑』が、ここに建てられています。
    この慰霊碑は、原爆で亡くなっていった子ども達、教職員、家族の霊を慰めるため慰霊碑をつくろうという永井隆博士の意見に子ども達が賛同してつくられたものです。
    慰霊碑横の石に刻まれている『あの子らの碑』の文字は永井隆博士の書によるものです。

基本情報

住所 〒852-8114 長崎県長崎市橋口町20-56
電話番号 095-844-0785(長崎市立山里小学校)
交通アクセス ・長崎駅前から路面電車(赤迫行)で約14分、大橋電停下車徒歩約6分
・JR長崎駅前から長崎バス(下大橋行)で約25分、山里小学校前下車徒歩約2分
・JR長崎駅前から車で約10分
リンクURL 長崎市立 山里小学校
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