平和への祈り

1945年(昭和20)8月9日午前11時2分。長崎上空で炸裂した原子爆弾は、多くの人々の命を奪い、街は壊滅的な被害を受けました。長崎にはその時の惨状を伝え、核兵器の恐ろしさや平和の尊さについて語り継ぐ施設や被爆した遺構が数多くあります。なぜ長崎に原爆が落とされたのか、原爆の被害はどのようなものだったのかを知り、平和の尊さについて改めて感じてみませんか。
原爆の威力を確かめやすい都市として選ばれた
1940年(昭和15)、日本はドイツ、イタリアと同盟を結び、アメリカ、イギリスなどと戦争をしていましたが、ドイツが核エネルギーを使った新型の爆弾を開発しているとの情報を得たアメリカは、1942年(昭和17)の「マンハッタン計画」によって原子爆弾を作り始めました。
3年後の1945年(昭和20)、原爆を完成させたアメリカは7月に原爆の実験を行い、8月6日には広島へ原爆を投下。その3日後の8月9日、アメリカの爆撃機B29は九州の小倉に原爆を投下する予定でしたが、小倉上空が雲に覆われていたため、第2目標だった長崎へ向かい、高度9,600メートル上空から原爆を投下。原爆は午前11時2分に長崎市松山町上空で炸裂しました。
長崎が原爆投下の目標となったのは、これまでの空襲で被害をあまり受けておらず、原爆の威力や効果を調べるのに都合がよかったという点や、造船所や製鋼所、兵器工場などが集まっていたことが理由として考えられています。
  • 被爆後の長崎駅前(長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)

    被爆後の長崎駅前(長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)

  • 目覚町から岩川町電車沿線を望む(長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)

    目覚町から岩川町電車沿線を望む(長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)

  • 熱によって溶けた6本の瓶(長崎原爆資料館蔵)

    熱によって溶けた6本の瓶(長崎原爆資料館蔵)

  • 爆心地の瓦(長崎原爆資料館蔵 撮影者:相原秀二)

    爆心地の瓦(長崎原爆資料館蔵 撮影者:相原秀二)

  • 爆心地に最も近い場所にあった旧城山国民学校(長崎原爆資料館蔵 撮影者:相原秀二)

    爆心地に最も近い場所にあった旧城山国民学校(長崎原爆資料館蔵 撮影者:相原秀二)

熱線、爆風、放射線が街を襲う
長崎市松山町の上空約500メートルで炸裂した原爆によって直径約280メートルの大きな火の玉ができ、原爆の直下の地表面は3,000度から4,000度にまで達したと推定されています。その熱で、燃えるものは全て火を吹き、人の肌は焼けただれてはがれ落ちたり、爆心地付近では、あまりの高温に体が一瞬にして炭のようになったと考えられています。
また、爆風によって人の体は吹き飛ばされ、割れた窓ガラスの破片が体に刺さりました。爆心地から1キロメートル以内の一般の家屋は原型をとどめないほど破壊され、鉄筋コンクリートの建物はところどころ残ったものもありましたが、潰れたり、大きく変形したりしました。
さらに、原爆が他の爆弾と大きく異なるのは、爆発時に大量の放射線を照射することです。爆心地から1キロメートル以内で被爆した人は、無傷であっても大多数が死亡。爆発時に放出された放射線の他、燃え残りが地上に降下した「死の灰」や、これが混じった「黒い雨」で放射線の被害にあった人もいます。
長崎の人口は当時、約24万人。そのうち原爆によって1945年(昭和20)末までに73,884人が亡くなり、74,909人が負傷。原爆の熱線、爆風、放射線による病気が人々を苦しめ、生き残った人でも時が経つにつれ様々な病気になりました。家屋も18,409戸が被害を受けています。
長崎原爆資料館

長崎原爆資料館

被爆資料を後世に語り継ぐ

長崎原爆資料館では、被爆の惨状を再現するとともに、遺品や被爆資料、写真、映像などの資料を数多く保存、展示しています。また、原爆投下に至る経緯や核兵器開発の歴史についても知ることができるほか、平和推進の取り組みや平和学習の支援なども行っています。

核兵器の恐ろしさを実感
爆心地に造られた「平和公園」を中心に、長崎市内には原爆の恐ろしさを今に伝える被爆遺構や、被害に遭われた方々の慰霊碑などが点在しています。これらを実際に回ってみることで、戦争の悲惨さや平和の尊さが実感できるでしょう。
  • 被爆した山王神社の大クスは1カ月後に芽吹きはじめた(長崎原爆資料館蔵 撮影者:林重男)

    被爆した山王神社の大クスは1カ月後に芽吹きはじめた(長崎原爆資料館蔵 撮影者:林重男)

  • 再建中の浦上天主堂(長崎原爆資料館蔵)

    再建中の浦上天主堂(長崎原爆資料館蔵)

  • 現在の浦上天主堂

    現在の浦上天主堂

よみがえる長崎の街から、恒久平和への祈りを捧げる
原爆投下後の長崎の街は焼け野原となり、こののち70年の間は、草木も生えないだろうといわれました。しかし、約1カ月後には、かすかに草木が芽吹き、虫たちの姿もありました。そんな生命の息吹に、絶望の淵にあった人々は生きる希望を見出しました。やがて人々は、壊れた建物の木材などを集めて小屋を建て、住み始めます。被爆後の翌年、1946年(昭和21)には市営住宅も建ち始め、街は徐々に活気を取り戻していったのです。