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- 思案橋・丸山
江戸、明治の風情が残る奥丸山に建つ国指定史跡
秋帆の父、町年寄高島四郎兵衛茂紀(たかしましろうべえしげのり)が文化3年(1806)現在地に別邸を建て、雨声楼(うせいろう)・齢松軒(れいしょうけん)等と呼ばれました。 秋帆は父の没後町年寄を継ぎ、また長崎表御取締(ながさきおもておとりしまり)も命じられていました。ところが、天保9年(1838)の大火で大村町(現在の万才町)の高島邸が類焼したので、以後この別邸が使われていました。 秋帆は荻野(おぎ…
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- 浦上・平和公園
原爆犠牲者の冥福と平和を願う祈りの空間
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。 「平和祈念像」 長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は&…
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- 出島・ベイサイド
鎖国時代、世界に開かれた唯一の窓口
国指定史跡「出島和蘭商館跡」 鎖国時代の約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口でした。19世紀、島内には住居や料理部屋、蔵、番所など49棟もの建物があり、現在そのうちの25棟を復元させるための事業が進んでいます。明治期にその役割を終え、陸地の中に埋もれ、人々の記憶からも消えかけていましたが、今から約60年前に長崎市が出島の復元に着手しました。 現在の出島は、大きく4つの時代の遺…
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- 深堀・香焼・伊王島・高島
- 野母崎・三和
日本の近代化を支えた産業遺産
小さな海底炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。 最盛期の昭和35年(1960)年には約5300人もの人が住み、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に。島内には小中学校や病院などが完備され生活を全て島内で賄うことができ、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もそろっていまし…
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- 風頭・寺町・中島川
国の重要文化財に指定されている日本最古のアーチ型石橋。
17世紀、長崎の町並みは拡大され護岸を構築し、ほぼ現在の中島川が形づくられました。このころは、キリスト教禁教の時代であり、唐文化の導入により興福寺などの仏寺が次々と建立されました。 寛永11年(1634)、興福寺の黙子如定禅師が架設したこの眼鏡橋は、長さ22m、幅3.65m、川面までの高さ5.46mで日本初のアーチ式石橋として有名です。 川面に映った影が双円を描き、「メガネ」に見えることから、こ…
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- 稲佐山・飽の浦・福田
世界新三大夜景に認定された長崎の夜景を望む絶景スポット
長崎市のランドマーク的存在で、夜景鑑賞に大変人気のスポットです。 長崎の夜景は2012年に開催された「夜景サミット2012 in 長崎」において、香港、モナコと共に「世界新三大夜景」に選ばれました。 また、2015年には、神戸、札幌と共に「日本新三大夜景」にも選ばれました。 稲佐山から眺める夜景は、「1,000万ドルの夜景」と称されるほど美しく、一見の価値あり!です。 平成23年…
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- 思案橋・丸山
往来する者が大いに「行こか戻ろか」と思案したというので思案橋という名がついたといわれています。
日本が鎖国となり、長崎は唐蘭易で賑わいましたが、この橋も丸山をひかえ地元はもちろん諸国往来の人達で利用おびただしく、土橋から木の橋へ、木の橋から屋根のついた木廊橋へ変わり、また、もとの木橋になったりと変転を重ねました。 思案橋という名はいつからついたのかわかりませんが、丸山の繁盛と深い関係があることはまちがいないといわれます。 木橋は火事で明治8年(1875)に石橋になり、大正3年(1914)…
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- 浦上・平和公園
恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士の病室兼書斎
如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。 原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたこの建物を博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付け2人の子ども達と共に暮らしました。 北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置き、寝たきりの博士は執筆にはげまれました…
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- 風頭・寺町・中島川
土佐の浪人 坂本龍馬が同志と組織した日本初の商社「亀山社中」跡に建つ記念館
「亀山社中」は、慶応元年(1865年)薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同志により設立された結社です。徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、船の回送や運輸業、銃器のあっせんなどの商号活動も行い、「日本初の商社」といわれています。 幕末頃、亀山で「亀山焼」という焼物が一時焼かれていましたが廃窯となり、その窯ではたらいていた人々の住居跡を根城としていました。亀山社中の…
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- 東山手・南山手
長崎港の大パノラマを見下ろす絶景、南山手の丘に位置する長崎ロマンの地
「グラバー園」は、 国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元したものです。 園内は長崎独特の坂の地形のため、動く歩道、エスカレーターを設け、壁泉・石畳による回遊道路をめぐらし、異国情緒あふれる観光名所としてたくさんの人々に親しまれ、年間100万人以上の観光客が訪れています。 長崎港、稲佐山をはじめとする緑したたる山々…
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- 東山手・南山手
世界の宗教史上に残る劇的な「信徒発見」の舞台
大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。 聖堂内を飾るステンドグラスの中には、約100年前のものもあります。 また、建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。 設計指導者はフランス人宣教師…
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- 東山手・南山手
異国の薫り漂う石畳の坂道
居留地の風情が色濃く残る南山手の静かな住宅地にある坂道。通りの道筋には数件の今も現役の洋館が現存している。 古い石畳の脇には三角の形をした三角溝と呼ばれる溝があり、水流の速さを調節するために溝の形が上と下とで違うところがおもしろく、またそれが名前の由来となっている。 雨が降るとドンドン音をたてて流れるから通称・どんどん坂。雨のどんどん坂は長崎の異国情緒を代表する風景だ。
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- 出島・ベイサイド
水辺に誕生した壮大な癒しスポット
平成15年(2003)、長崎港に面した内港エリアに誕生した公園。園内には運河が配され、水と緑にあふれた憩いの場として市内外の人々の人気を集めている。この運河には「風待橋」「宵待橋」「あじさい橋」「オランダ坂橋」など長崎らしいネーミングの橋が架けられ、“水辺のプロムナード”と名付けられた散歩道を整備。水遊びや散策が楽しめる。また、山から湧き出た自然の水を噴水やせせらぎに利用し…
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- 東山手・南山手
異国情緒あふれる東山手に位置し、外国人居留地一帯の坂道
東山手洋風住宅群など、異国情緒あふれる東山手に位置しており、近隣には日本で最初の女学校である活水学院・洋風住宅7棟があります。出島に住むオランダ人の影響か、開国後も長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた為、当時「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼んでいたと考えられています。現在は、主に活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂がオランダ…
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- 風頭・寺町・中島川
長崎港を一望できる公園に威風堂々と建つ
建立日は、平成元年5月21日、製作者は長崎市在住の彫刻家、山崎和國氏。「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけで全国の有志の募金により建立されました。 周囲には龍馬を写真撮影した上野彦馬の墓や、亀山社中跡など龍馬ゆかりのものが散在しており、寺町通り禅林寺、深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道は「龍馬通り」と呼ばれ、長崎市の歴史探訪路となっています。
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- 浦上・平和公園
弾圧に苦しんだ浦上信徒が築いた教会(浦上天主堂)
浦上教会(浦上天主堂)は、1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって建設が計画されました。 ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た1895年にようやくフレノ神父の設計による教会の建設が開始され、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。 正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられましたが、…
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- 風頭・寺町・中島川
竹ン芸で知られる龍馬ゆかりの神社
「古いお宮を若宮」と親しまれる若宮稲荷神社は、出来大工町乙名(おとな)・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられている。 また、元文元年(1736)に長崎奉行・細井因幡守安明が参道を開削し、社殿を改築したのをはじめとして代々の奉行、人々の尊崇を集めてきた。現在は、毎年10月14、15日の例大祭に…
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- 風頭・寺町・中島川
寛永6年(1629)、福州地方の唐人たちの希望で、唐僧超然が招かれ建立されました。
興福寺が南京地方出身者の建立によるもので南京寺と呼ばれるのに対し、崇福寺は福州寺と呼ばれます。 市内鍛冶屋町にあり、竜宮門を思わせる三門や珍異奇巧を極めている第一峰門があります。 殿堂内の仏像仏具類は、いづれも中国人名匠の手によるもので、明朝末期文化の縮図といえるものです。 第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定され、その他にも国指定重要文化財5、県指定有形文化財4、市指定有形文化財10をもつ文化財…
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- 東山手・南山手
孔子廟は、色あざやかな中国華南と華北地方の建築様式が合体した中国本廟の伝統美きわまる彩り豊かな極彩色の廟宇です。
【臨時休館のお知らせ】 新型コロナウイルス感染拡大により、長崎県の緊急事態宣言が発令されたことを受け、 感染の拡大を防ぐため、下記日程を臨時休業とさせて頂きます。 2月15日(月)~3月7日(日)迄 急なお知らせとなり、大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません。 ご理解のほどよろしくお願いいたします。 元来、孔子廟とは、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりで、明治26年(189…
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- 長崎駅・宝町
殉教の様子が描かれたレリーフが建つ丘
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。 キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り&rdquo…