第2章 ⻑崎今昔ランドスケープ
むかし、⽇本のあらゆる⽂物をえがいた⼤作『⽇本』の図版と、数百年を超えて今も残る⻑崎の年中⾏事・寺社仏閣の今昔⾵景をリンクする。
◆年中⾏事と神社
【⽔神祭|⽔神神社】
⽔源の涵養のため、のぼりをあげて、井⼾に鏡餅などをお供えし、⽔神に祈りを捧げる5⽉の祭礼の様⼦が描かれています。⽔神神社は⻑崎五社の⼀つで、寛永年間(1624〜1645)に創建されました。河童は⽔神の零落した姿とされますが、神社の境内には霊⽯「河童⽯」が祀られています。
シーボルト『⽇本』より本⽂抜粋:
⽔の神の神事は⾬季の初めから終りに⾄るまで国中で⾏われる。⼩川や泉、しばしばまた、河川や湾のほとりに⽵の房や旗竿が建てられ、そこに神聖な御幣がひるがえる。毎⽇、朝⼣⼈々は鉢や太⿎を叩き、「⽔神を崇拝し、祝祭をおこない、供物を捧げる」と書いた旗を上げる。そして、福利をもたらしてくれる神の、御幣で飾られた供物の卓に、⿂や菓⼦、⾦銭の寄付を捧げる。
>>今の姿|⾵景の美術館「⽔神神社」スポット詳細ページ
https://landscape-museum.com/article/1100/
【祇園祭|⼋坂神社】
⼋坂神社は1626 年に創建し、以来、疫病退散、家内安全、天下安泰の神事として祇園祭が⾏われ、造り花やうちわなどの祭り屋台や芝居⼩屋が⽴ち並ぶ参道は⼤変賑やかだったようです。現在でも、⻑崎は7⽉の祇園祭が親しまれており、厄除けのほおずきを買い求める夏の⾵物詩となっています。
シーボルト『⽇本』より本⽂抜粋:
⽉神素戔嗚尊と稲⽥姫という名前で太陽⼥神の神殿があり、毎年いくつかの祭りが⾏われる。……さまざまな売店や⾷物、飲物の屋台が建てられ、踊り、英雄の讃歌、歴史物語やいろいろな娯楽が夜遅くまで⾏われる。
>>今の姿|travel nagasaki「祇園祭」イベント詳細ページ
https://www.at-nagasaki.jp/event/50858
【⻑崎くんち|諏訪神社】
⻑崎の総⽒神 諏訪神社の秋の⼤祭 ⻑崎くんちの⽇は、出島の⻄洋⼈も⻑崎のまちに出て、⾒物することが許されました。シーボルトにとっても特に印象深いイベントだったようで、諏訪神社の境内や⻑崎くんちの出し物“太⿎⼭(コッコデショ)”、“鯨の潮吹き”の様⼦は『⽇本』の図版として収録され、祭の法被や前掛けなどの豪華絢爛な⾐装数点もオランダへ持ち帰っています。
シーボルト『⽇本』より本⽂抜粋:
毎年九⽉九⽇に⼤きな祭り、すなわち「諏訪⼤明神の祭」が⾏われる。この強⼒な神はいくつかの⽇本の⼤都市の守護神で、⻑崎でもそうである。この都市は彼の守護の下に外国貿易で繁栄し、そのことを感謝するために諏訪の神の祭りは特別の華麗さをもって祝われる。
>>今の姿|travel nagasaki「諏訪神社」スポット詳細ページ
https://www.at-nagasaki.jp/spot/94
◆⻑崎三⼤寺
【曹洞宗 晧台寺】
晧台寺は、1608年に創建された寺院で、『⽇本』の図版では仏教 禅宗の寺院の例として描かれています。堂内の本尊は、釈迦如来像を中尊として、その左右に⽂殊菩薩・普賢菩薩の両脇侍像を安置した釈迦三尊像。境内墓地には、シーボルトの妻 楠本タキ、娘 楠本イネが眠る楠本家墓地があり、シーボルトの⾨弟でイネを養育した⼆宮敬作も同じ墓地に眠っています。
>>今の姿|公式HP「晧台寺」
https://kotaiji.net
【浄⼟宗 ⼤⾳寺】
⼤⾳寺は、1614年に創建された寺院で、『⽇本』の図版では仏教 浄⼟宗の寺院の例として描かれています。堂内の本尊は、阿弥陀如来像。境内墓地には、シーボルトの⾨弟で鳴滝塾の塾頭だった美⾺順三の墓碑があります。オランダ語に⻑けていて、様々な⽇本の書籍を翻訳しましたが、『⽇本』古代史編の史料は、彼が提出した翻訳⽂「⽇本書紀神武天皇紀」によるものと⾔われています。
>>今の姿|travel nagasaki「⼤⾳寺」スポット詳細ページ
https://www.at-nagasaki.jp/spot/65162
【⽇蓮宗 本蓮寺】
本蓮寺は、1620年に創建された寺院で、『⽇本』の図版では仏教 ⽇蓮宗の寺院の例として描かれています。堂内の本尊は、南無妙法蓮華経題⽬の宝塔。本蓮寺は、シーボルトが30年ぶりに再来⽇したときに宿泊し、⽇本に残した家族 妻 タキと娘 イネに再会した場所と⾔われています。このとき、シーボルト64歳、タキ53歳、イネ33歳でした。
>>今の姿|travel nagasaki「本蓮寺」スポット詳細ページ
https://www.at-nagasaki.jp/spot/61007
COLUMN
⻑崎のハレの⽇を祝う 鯨(クジラ)
『⽇本』には、1枚の捕鯨図が描かれています。シーボルトの⾨弟 ⾼野⻑英に提出させた論⽂「鯨ならびに捕鯨について」などを情報源に、需要が多いのはセミクジラとコクジラ、⽣よりも塩鯨⾁の⽅がおいしい、鯨油を菜種油よりも好んで使⽤する、油をとった残りカスも貧乏⼈の⾷⽤となり、粉は肥料として⽤いられていることなど、ヨーロッパでは考えも及ばなかった他の⽤途があることを紹介しています。江⼾時代、⻑崎県下は古式捕鯨の中⼼地。捕鯨業は江⼾時代最⼤の産業で、「くじら⼀頭で七浦が潤う」と⾔われる程でした。出島貿易で栄えた⻑崎の裕福な⼈々の元には、鯨の⾼級部位(カノコ、ハシカワ、ウネスなど)が届けられ、鯨⾷⽂化が発達しました。現在も⻑崎は鯨⾁消費量⽇本⼀を誇っており、正⽉などのハレの⽇の料理として鯨が振る舞われ、⻑崎市街地にも鯨料理を提供する飲⾷店が数多くあります。