どうして出島は造られたの?

キリスト教の布教を禁止し、貿易を監視するため
長崎を代表する豪商25人が出資して築造されたという出島は、いかなる背景があって造られたのか、なぜ扇形をしていたのか? 出島誕生の歴史的背景と築造された出島についてご紹介します。
  • 出島絵巻物(長崎歴史文化博物館蔵)

    出島絵巻物(長崎歴史文化博物館蔵)

25人の長崎の豪商が出資
寛永13年(1636)、ポルトガル人によるキリスト教の布教を防ぐため、また貿易を厳しく監視するために、徳川幕府は岬の突端に人工の島を築き、そこにポルトガル人を収容しました。出島は人の手で造成された「人工の島」。元々は出島という名前ではなく、海を埋め立てて築いた島=「築島(つきしま)」、または形状が扇型をしていたことから「扇島」と呼ばれていました。形は扇形で、東側、西側ともに約70m、北側約190m、南側約233m、周囲約563mの大きさで、総面積は約1万5千平方メートル。東京ドームの約3分の1です。築造期間は約2年、かかった費用は銀二百貫目(約四千両)と言われています。これは、現在の貨幣価値に換算すると約4億円。このお金は25人の町人によって出資されました。「出島町人」と呼ばれた彼らは、長崎を代表する豪商で、鎖国体制が強化される中、ポルトガル貿易を有効に利用して利益を上げようと考えたのでした。
出島はなぜ扇形なの? 

出島はなぜ扇形なの? 

出島が扇形になった理由は、諸説ありますが、よく言われているのが以下の3つの説です。

将軍の扇説:「長崎に今度つくる島の形はいかがしましょうか」と問われた時の将軍・徳川家光が、自分の扇を出して「これを見本にしなさい」と言ったという説。

地形・地質説:中島川の河口に運ばれた土砂が堆積して弧状の砂州が形成され、それを土台に埋め立てたからという説。

波よけ説:海側のカーブには波浪の影響を少なくする効果があるので扇形にしたという説。

  • カピタン一行が描かれている「南蛮人来朝之図」

    カピタン一行が描かれている「南蛮人来朝之図」

オランダ商館が移され貿易がスタート
出島に最初に居住したのはポルトガル人でしたが、完成の翌年に島原と天草でキリシタン農民による一揆が起こると、幕府とポルトガルとの関係が悪化しました。これにより寛永16年(1639)には、ポルトガル人の日本渡航が禁止され、わずか3年で出島は無人島となりました。
その後、平戸のオランダ商館が出島に移された寛永18年(1641)から安政6年(1859)までの218年間は、日本で唯一ヨーロッパに開かれた窓として、出島を通じた貿易が行われました。これが日本の近代化に大きな役割を果たしました。
  • 羅紗更紗見本帳。羅紗には東印度語のサラサに発してポルトガル語化し「優秀」という意味もあった(長崎歴史文化博物館所蔵)

    羅紗更紗見本帳。羅紗には東印度語のサラサに発してポルトガル語化し「優秀」という意味もあった(長崎歴史文化博物館所蔵)

オランダから織物や砂糖を輸入し、日本からは銅を輸出
オランダ貿易では、生糸を中心にインド産の木綿製品や羅紗(らしゃ)など、ヨーロッパ原産の毛織物類が輸入されました。江戸中期以降は砂糖が主な輸入品となり、その他、ビードロやギヤマンと呼ばれたガラス製品、ヨーロッパで焼かれた陶器、薬種、染料として使用する蘇木(そぼく)、鮫皮、錫(すず)、鉛など、さまざまなものが輸入されました。日本からの輸出品としては、江戸初期の主要品は銀でしたが、海外への大量の銀流出を幕府が問題視し、その後は金を輸出。17世紀後半からは銅の輸出を進め、以降、幕末まで銅が輸出品の主力となりました。このほか、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆製品、しょうゆや酒など樽物(たるもの)も輸出されました。
  • 出島の最後のカピタン、ドンケル・クルチウス (長崎歴史文化博物館所蔵)

    出島の最後のカピタン、ドンケル・クルチウス (長崎歴史文化博物館所蔵)

日蘭修好通商条約が締結された翌年に閉鎖
日本とオランダの貿易は、17世紀にもっとも活発に行われ、連合オランダ東インド会社がその中心的な役割を果たしてきました。しかし、18世紀後半になると、主な商品であった香料の商品価値が下がり、経営が厳しくなって解散。その後、出島はオランダ政府が貿易を管理するバタビア政庁の所属商館となりました。安政5年(1858)に日蘭修好通商条約が締結されると、日本人も出島へ出入りすることができるようになり、さらにその翌年からネーデルラント(現在のオランダ)貿易会社が貿易を手掛けるようになると、オランダ商館はその役割を終え、ついに閉鎖されました。