第3章 シーボルト事件と家族の絆
⾟く悲しい別れのきっかけとなった、シーボルト事件。海と時を越えて、シーボルトの家族の絆はもう⼀度結ばれる。
◆家族を引き裂く シーボルト事件
【⼤事件の種⽕がともる】
1826 年、シーボルトは江⼾参府の際に、江⼾幕府の天⽂⽅兼書物奉⾏ ⾼橋景保にある取引を持ちかけました。それは、ロシア提督クルーゼンシュテルン『世界周航記』などの外国書物を対価に、⽇本地図 伊能忠敬『⼤⽇本沿海興地全図』(縮図)を交換してもらうこと。この⽇本地図を国外に持ち出すことは禁⽌されていましたが、⾼橋景保は世界の最新事情を知ることは国防のために重要と考えて、シーボルトの取引に応じました。この物々交換が⼤事件の引き⾦になったと⾔われています。
【シーボルト事件の代償】
1828年、シーボルト事件が起こります。シーボルトの帰国直前、⾼橋景保と確執のあった幕府の隠密 間宮林蔵の密告を発端に、シーボルトの持ち物から⽇本地図などの禁制品が⾒つかったことで、贈り主である⾼橋景保ほか10数名が厳しく処罰されました。シーボルト⾃⾝も出島に1年間軟禁・尋問されましたが、純粋な博物学研究のためだったと主張し、協⼒者の名を上げず、⽇本⼈として帰化することも提案し、⼼よく協⼒してくれた多くの⽇本⼈を守るために尽⼒しました。1829 年、ついにシーボルトに国外追放という判決が下され、悲劇的な結末で⽇本を去ることとなります。
【愛する家族とのさようなら】
1829 年12 ⽉30 ⽇、シーボルトの国外追放の⽇が訪れました。シーボルトを乗せたオランダ船は、厳重な警備の中、出島を出航しました。出航⽇は秘密でしたが、早朝、オランダ船が⻑崎港外の⼩瀬⼾の沖にさしかかったとき、漁師に変装した⾨徒 髙良⻫、⼆宮敬作たちが、⼩⾈に妻 タキと娘 イネを乗せて近づいてきました。シーボルトは⼩⾈に乗り移って、⼩瀬⼾の海岸に上陸し、最後の⾟く悲しい別れを告げました。やがてオランダ船に戻ったシーボルトは、愛する家族を⽇本に残してヨーロッパへと旅⽴ちました。このとき妻タキは22歳、娘イネは2歳でした。
◆海と時を越える 愛の架け橋
【海を越える ロングラブレター】
シーボルトが去ったあと、タキとイネは出島を出ました。⼆⼈はシーボルトが残してくれた財産によって⽣活に困ることはありませんでした。更に、シーボルトが特に信頼していた⾨徒 髙良⻫、⼆宮敬作が彼⼥たちの良き相談相⼿となってくれました。やがてシーボルトとタキは互いの深い愛情がこめられた、海を越える⻑いラブレターを送りあいました。
1830年3⽉4⽇、シーボルトから妻 タキへの⼿紙(抜粋)
「愛する優しい其扇(タキのこと)と『おいね』へ……私は愛する其扇と優しい「おいね」が平穏で幸せに暮らすことを望んでいます。私のことを忘れないでください。毎⽇、( 2⼈のことを思うと)⽗親らしい⼼を持って今でも涙がこぼれるのです。
本当に可愛い『おいね』のようなこどもはジャワ全体で⾒つかりませんが、(『おいね』のことを思い出し)ひどく⼼が痛むのです。
お前と『おいね』のことは、万事良きよう 世話をいたします。……どうして私は愛するお前や『おいね』のことを、⽚時も忘れることができようか。私が⼀膳の⾷事をするときは、お前に半膳を供えます。⽇々、お前の誠実な⼈柄を思いながら、毎⽇、お前と『おいね』の名を呼んでいます。
お前とこどもが元気に暮らし、(弟⼦たちや)友⼈たちの皆さんへよろしくお伝えください。さようなら。
……ソノギヲシトル(タキを愛している)」
1830年12⽉25⽇、妻 タキからシーボルトへの⼿紙(抜粋)
「3通の⼿紙は届きました。ありがたく思っています。お元気でいらっしゃると聞いて、とてもめでたく思っています。
私とおいねも無事に暮らしています。船の旅を⼼配していましたが、滞りなくバタビアにお着きになって安⼼しました。
不思議なご縁で数年間おなじみになっていたところ、⽇本でいろいろと⼼配事が起こり、あなたは去年帰られました。涙が出ない⽇はありません。
お⼿紙をもらい、あなたのお顔を⾒た気持ちになり、とてもゆかしく思います。この⼿紙をあなたと思って、毎⽇忘れることはありません。
おいねはなんでもわかるようになりました。毎⽇あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています。」
【時を越える 再会のしるし】
タキは、⽇本を離れたシーボルトへのラブレターに贈り物を添えました。それは川原慶賀の作を下絵とした、螺鈿細⼯のかぎたばこ⼊れ。蓋の表にはタキの肖像、裏にはイネの肖像が描かれ、いつまでも私たち家族のことを覚えていてほしいという願いが込められていました。悲しい別れから約30年後の1859年8⽉14⽇、シーボルトの悲願であった再来⽇が実現します。このときシーボルトが何⼗年も⼤事にしていた螺鈿細⼯のかぎたばこ⼊れは、シーボルトの家族の時を越えた“再会のしるし”として、格別の喜びととともにタキの元へと返ってきたのです。現在、この螺鈿細⼯のかぎたばこ⼊れは、国指定重要⽂化財『シーボルト妻⼦像螺鈿合⼦』としてシーボルト記念館に保管され、シーボルト・ファミリーの愛の証を今に伝えています。
COLUMN
平和の国の“オランダイチゴ”
江⼾時代、⽇本に⼊ってきた野菜や果物は、ほとんどがオランダ船で持ち込まれたことから、「オランダ○○」と名付けられました。シーボルトが好んでいたイチゴも、外国から出島にやってくると“オランダイチゴ”と呼ばれて⽇本⼈に親しまれ、愛妻 タキの好物にもなりました。タキは亡くなるとき、⼆⼈の思い出の“オランダイチゴ”を所望して⾷べたと⾔われています。また晩年、ドイツにいたシーボルトは臨終の際に「わたしは平和の国へ⾏く」と呟いたと伝承されていますが、平和の国とは、シーボルトが⽣涯を捧げて研究し、愛する家族を築いた“⽇本”のことだと⾔われています。