21世紀によみがえる出島

明治に姿を消した出島ー。その歴史的建物を復元
出島は明治に入って姿を消しましたが、その歴史的建物を復元しようという取り組みは、昭和26年(1951)から始まっています。平成28年(2016)秋には、新たに6棟の復元建物が完成しました。それらの建物などを紹介します。
  • 明治初期に制作された「出島ジオラマ紙細工長崎青貝額縁」(長崎歴史文化博物館)

    明治初期に制作された「出島ジオラマ紙細工長崎青貝額縁」(長崎歴史文化博物館)

居留地になった後は埋め立てられた
安政6年(1859)に長崎、神奈川、箱館が開港すると、出島は「鎖国時代、ただ一つのヨーロッパに開かれた窓」としての役割を終えました。慶應2年(1866)年に居留地となった出島は次第に周囲が埋め立てられ、明治37年(1904)の港湾改良工事で、街の中に飲み込まれていき、その扇形の島は完全に姿を消しました。
  • 絵葉書・出島岸壁工事中 (長崎歴史文化博物館所蔵)

    絵葉書・出島岸壁工事中 (長崎歴史文化博物館所蔵)

  • 出島から世界に伝わった棹銅 (長崎歴史文化博物館所蔵)

    出島から世界に伝わった棹銅 (長崎歴史文化博物館所蔵)

近年にも新たに6棟が復元
出島の復元整備事業は昭和26年(1951)からスタートしました。50年の歳月をかけ、史跡の部分を公有化し、発掘調査を経て2000年以降、順次建物の復元が進んでいます。
平成28年(2016)秋には、新たに以下の6棟の復元建物が完成しました。
① 「乙名詰所」〜出島の人の出入りを監視〜
出島を管理していた町役人「乙名」が貿易のない時期に仕事をしていた建物。商館長ドゥーフが書いた模型の解説書には「ここから、陸門(表門)を通過するすべてに目を光らせている」と書かれています。
② 「銅蔵」〜銅を保管〜
組頭部屋に隣接した中規模の土蔵。主要な輸出品である棹銅(さおどう)を保管していました。棹銅は、日本各地の銅山から産出した銅を大阪の銅吹場(どうふふきば)で精錬・鋳造しました。模型や絵画資料から、建物が高いことがわかっており、二階が吹き抜けになっています。ここは棹銅に関する展示をしています。
③ 「組頭部屋」〜銅を計量〜
銅蔵と一体になっており、一階の土間は主要な輸出品である「棹銅(さおどう)」の計量を行う作業空間として使われていたと考えられています。
④ 「十四番蔵」〜砂糖を保管〜
オランダ商館員が「復活」と呼んでいた土蔵で、代表的な輸入品である砂糖を保管していました。出島の築造や旧出島橋に関する展示をしています。
⑤ 「筆者蘭人部屋」〜商館員の住居〜
オランダ商館員の住居。一人あたりの居住空間は、カピタン部屋や拝礼筆者蘭人部屋と比べると狭いものの、建物の南側には庭園がありました。出島と長崎の町、日本、そして世界とのつながりを紹介する展示をしています。
⑥ 「十六番蔵」〜丁子などを保管〜
輸入品のうち漢方薬の原料になる丁子(ちょうじ)を保管していました。企画展示室や収蔵庫として活用されています。
出島表門橋の架橋

出島表門橋の架橋

出島と対岸の江戸町との間に架かっていた石橋は、明治21年(1888)に中島川変流工事で川幅を広げる際に撤去されてしまいました。当時と同じように水面を渡って出島へ出入りできるように、出島表門橋が平成29年(2017)11月に架橋されました。この橋は出島の遺跡を保護するとともに、防災面に配慮した片持ち形式の鉄橋で、出島の景観に配慮したデザインとなっています。 復元計画は、さらには周囲に水面を確保し、完全復元を目指しています。建物の復元が進むと同時に、オランダをはじめヨーロッパや東南アジアの関係機関との連携も進んでいます。出島で日本と海外の歴史を学ぶことで、これからの日本のグローバル化へのヒントが見つかるかもしれません。

出島表門石橋図(長崎歴史文化博物館)