出島にはどのような暮らしがあったの? 

どんな人々が暮らし、どんな生活が営まれていたのか
出島にはオランダ人だけでなく、多くの日本人も働いており、そこには数々の人間ドラマが生まれました。オランダ商館で働く人々、出島に出入りを許された日本人とはどのような人たちだったのでしょうか。出島の恋愛事情や、出島の歴史の中で繰り広げられたエピソードを紹介します。
  • 出島の建物やさまざまな役職の人が詰めている場所が記された「出島蘭館之図面」(長崎歴史文化博物館蔵)

    出島の建物やさまざまな役職の人が詰めている場所が記された「出島蘭館之図面」(長崎歴史文化博物館蔵)

オランダ人以外に多くの日本人も
出島のオランダ商館には、時代によって増減がありますが、最高責任者の商館長=カピタン、商館長次席=ヘトル、貨物管理の責任者である荷役役、会計総括の決算役、書記役(1~3人)、医師、調理師など、多いときで15名くらいのオランダ人が居住していました。特に商館医には、出島の三学者と称されるケンペル、ツュンベリー、シーボルトなど、日蘭の学術、文化交流史上において多大な貢献をした人物がいました。この他にも、バター製造人や鍛冶屋など下働きの職人、オランダ人の身の回りの世話をする東南アジアの人がいました。
出島は長崎奉行の管理下にあり、多くの日本人も勤務していました。「乙名(おとな)」と呼ばれる責任者、通訳として働く阿蘭陀通詞、探番(門番)、コンプラ仲間(買物使)、料理人、草切など、さまざまな役職があり、全体で100人以上が働いていたようです。
出島でもっとも厳しい取り締まりの対象になったのは「抜荷」(密貿易)でしたが、密かに商品を持ちだしたり持ち込んだりしないよう、監視をしたのが探番です。不審な行動をとるものがいれば、袖や懐に手を入れて探ったことから探番と呼ばれていました。コンプラ仲間は、出島から出ることができないオランダ人に代わって、日常生活に必要なものを町に出て買ってくるの仕事でした。オランダ人と最も関係が深かったのが阿蘭陀通詞で、彼らはオランダ人と意思の疎通ができることから、商館員らが口にしていたコーヒーを分けてもらったり、正月の宴会に招かれたり、出島でしかできない貴重な異国体験することができたようです。
  • オランダ船の入港を見守る白い服の男性がシーボルト、その後ろに描かれた女性と子どもが滝とイネといわれている川原慶賀筆の「蘭船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵)

    オランダ船の入港を見守る白い服の男性がシーボルト、その後ろに描かれた女性と子どもが滝とイネといわれている川原慶賀筆の「蘭船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵)

遊女とオランダ人のロマンスも
平戸商館時代のオランダ人は、夫人を同伴することや日本人女性との結婚が許されていましたが、出島に移ってからはそれがまったく許されませんでした。出島はいわば男の世界。例外的な処置として、商館長ブロムホフの夫人が短期間滞在したことはあったものの、その後訪れた商館員夫人はすぐに追放されるなど、厳しい掟がありました。
唯一、出島に立ち入りを許されたのが遊女です。「阿蘭陀行(おらんだゆき)」と称された丸山町や寄合町の遊女は、禿(かむろ)と呼ばれる御付きの少女を引き連れて、出島の橋を渡っていきました。
オランダ人と遊女との間のロマンスも伝わっています。中には遊女を愛するあまり、その別れを恨んで、姿をくらまし、自殺まで考えた商館医もいたほど。有名なシーボルトと引田屋の遊女・其扇(そのぎ)のロマンスはよく知られていて、二人の間に生まれたのが楠本イネでした。イネは日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られます。
  • 出島海岸(長崎歴史文化博物館蔵)

    出島海岸(長崎歴史文化博物館蔵)

  • 江戸町のくんちの出し物であった「阿蘭陀兵隊さん」は、ワーテルローの戦いにオランダなどの連合軍がフランスに大勝したことを祝して、奉納踊りに取り入れたという説がある。(長崎歴史文化博物館蔵)

    江戸町のくんちの出し物であった「阿蘭陀兵隊さん」は、ワーテルローの戦いにオランダなどの連合軍がフランスに大勝したことを祝して、奉納踊りに取り入れたという説がある。(長崎歴史文化博物館蔵)

遊びやお酒、江戸旅行も
出島から外の世界に自由に出ることができなかったオランダ人は「国立監獄のようだ」と嘆いていました。そんな彼らの気晴らしが「玉突き遊び(ビリヤード)」やバドミントンでした。他にも庭園でゴルフをするなど、生活の楽しみを見い出していました。
彼らにとって一番の気分転換になったのは、江戸参府でしょう。江戸参府とは、商館長一行が将軍に拝礼するため、江戸へ向かうこと。この行列が通ると、道中は見物人でにぎわいました。出島しか知らないオランダ人にとっては、日本の様子を間近に見られる機会でした。
太陽暦の1月1日には「オランダ正月」という行事が開催されました。日本の役人たちを招いて、豪華な祝宴も行われたようです。この行事の前に「オランダ冬至」と称した催しもやっていましたが、これはキリスト降臨祭(現在のクリスマス)を密かに祝う行事でもありました。
長崎の風物詩、諏訪神社の「くんち」があるときは、オランダ人も大波止のお旅所の前に桟敷を設け、くんち見物をすることもありました。元禄3年(1690)に商館医師として来日したケンペルは、「演技はヨーロッパの名優もかなわないほど巧み」と称賛する一方で、「囃子は神々には楽しいだろうが、音楽通の耳には味気ない」「脚のこなしは農家の納屋で習い覚えたようなものなどと評したそうです。
数少ない楽しみの中には「お酒」もありました。出島にはオランダ人によってジェネバーと呼ばれるジンが大量に運びこまれていたようで、出島の発掘でもジンボトルの破片が見つかっています。ジェネバーはアルコールの度数が高い蒸留酒で、長い航海でも変質しにくいという特徴がありました。
商館長の贈り物

商館長の贈り物

当時は価値がわからなかった?

江戸参府は寛永10年(1633)以降、毎年1回が義務付けられていました。万治2年(1659)に江戸に到着したワーヘナール商館長は、幕府高官の老中稲葉美濃守(いなばみののかみ)に天球儀・地球儀、望遠鏡、草木誌などを贈りました。しかし、望遠鏡はレンズが薄く操作が難しいために好まれず、草木誌は木版挿絵が粗雑で小さい、天球儀・地球儀も期待したほどの感銘を与えませんでした。このうち、望遠鏡と草木誌は返却されたそうです。こうした態度は、当時の日本人の無知あるいは認識不足であるとして、学術的な贈り物の意義への疑念が報告書に記されています。

ドドネウスの『植物誌』(長崎歴史博物館所蔵)

 

 

 

 

 

 

  • オランダ人の宴会や食事の模様を取り扱った長崎古版画「阿蘭陀人食事之図」(長崎歴史文化博物館蔵)

    オランダ人の宴会や食事の模様を取り扱った長崎古版画「阿蘭陀人食事之図」(長崎歴史文化博物館蔵)

  • 歌川芳員筆「異人屋敷料理之図」(長崎歴史文化博物館蔵)

    歌川芳員筆「異人屋敷料理之図」(長崎歴史文化博物館蔵)

調達できない肉や野菜は飼育・栽培した
オランダ人の食生活はいわゆる「洋食」でしたが、当時の日本では牛肉を調達することは困難でした。そこで、ごちそうの牛肉にありつくために、オランダ人たちはバタビア(現在のジャカルタ)から船に乗せて運び、出島で食肉用に牛を飼育しました。飼育は主に庭園内にあった牛小屋で行われ、秋から初冬頃に解体され調理されました。
オランダ人たちにとってもう一つの重要な食べ物はジャガイモです。19世紀の初めには長崎で委託栽培されていました。商館長ブロンホフの記述には「町役人に金を払って桜馬場の背後にある畑を借り上げ、ジャガイモを植えさせて、その収穫に出かけた」とあります。
野菜や肉を使って、「オランダ正月」には豪華な食事を楽しみました。その献立は、「鶏かまぼこが入ったスープ、鴨の丸焼き、ソーセージ、野菜のボートル(バター)煮、デザートに丸カステラなど。葡萄酒やブランデー他、日本酒も用意され、食後にはコーヒーも出たそうです。
  • 出島オランダ屋敷略図 (長崎歴史文化博物館)

    出島オランダ屋敷略図 (長崎歴史文化博物館)

  • オランダ通詞として活躍した「本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像」 (長崎歴史文化博物館蔵)

    オランダ通詞として活躍した「本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像」 (長崎歴史文化博物館蔵)

人が暮らす場所ではいろいろな事件もあった
寛政10年(1798)、出島で火事が発生し、カピタン部屋ほか多数の建物が消失しました。火元はオランダ人の縫物師の部屋で、その部屋にいたオランダ人と遊女は逃げ出しましたが、禿(かむろ・遊女に使える十歳前後の少女)が焼死してしまいました。それは、運悪く商館長であったヘンミーが不在のときでした。
そのヘンミーは江戸参府の帰り道、掛川宿にて急死しました。当時の乱脈な経理や密貿易の発覚を恐れて、服毒自殺したと噂されたほど謎に包まれた死でしたが、直接の原因は胃病とされています。
寛政12年(1800)、新任の商館長ワルデナールが出島に着任してみると、先に外国船が入港していました。船の名は「エンペラー・オブ・ジャパン号」。オランダの旗を掲げて5月から入港していたが、無許可のアメリカ船で船長はアメリカ人。個人的な取引を試みた様子でした。積んでいた品は没収され、船長は取り調べを受けました。ペリー来航の50年以上前に、日本と貿易を試みたアメリカ人がいたのですね。
文化6年(1809)には、オランダ通詞の本木正左衛門ら6人が長崎奉行所に召し出され、英語の学習を命じられました。これは前年にイギリスの軍艦がオランダ船を装って長崎港に入港したという事件がきっかけでした。幕府は再びイギリスの船が来航した時に対応できるよう、英語の学習を命じたのでした。先生役となったオランダ人ブロムホフに英語を学んだ本木らは、ブロムホフが帰国したあとも学習を続け、『諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)』という日本初の英和辞典を編纂し、幕府に献上しました。