第2章 江⼾参府ダイアリー《前編》-1

第2章 江⼾参府ダイアリー《前編》 第2章 江⼾参府ダイアリー《前編》

著作三部作の図版に関わる出来事を中⼼に、⽇本研究の⼤冒険“シーボルトの江⼾参府”の前編(往
路:⻑崎〜江⼾)をダイジェスト。シーボルトが残した図版と⽇記本⽂を添えて。

◆九州

1826年2⽉15⽇[旧暦1⽉9⽇]

 

【⻑崎の威福寺にて旅の加護を祈り、出発する】

「出島の⾨を出ると、いわゆる江⼾町に沿って数百歩先の⼤波⼾の広場までゆき、
それから旅⽴つ⼈たちは⻑崎の町を通りぬけ天神社の近くで⽌る。
彼らはここで商館の残りの⽇本⼈役⼈と酒を汲みかわして別れを告げ、桜⾺場から⻑崎峠までの道をたどってゆくが、
峠では町のいろいろな役所の⼈たちが使節の⼀⾏を待っていて挨拶する。
今ではこの⽇は⻑崎の祭⽇になっている。」


 

【⻑崎の⽇⾒峠より、橘湾・雲仙岳をのぞむ】

「峠を越えて下り坂にかかるとやがて広々とした眺望がひらけ、右⼿には島原湾[今⽇の橘湾]が⾒える。
その海岸には⽇⾒や網場など美しい漁村があって、その背後に雲仙岳がそびえ⽴っている。」

2⽉16⽇[旧暦1⽉10⽇]

 

【⼤村にて、⼤村湾の名産品 真珠⾙を⾷べる】

「この地はとくに真珠の採取で名⾼く、領主はこれを独占している。
……⾙類は⽣のままかまたは煮て⾷べる。藩候の真珠採取場の⼀監視⼈は、
デザートに新鮮な⾙を盛った⽫を出してわれわれをびっくりさせた。
われわれはそれを⽣で⾷べたり焼いて⾷べたりしたが、おいしいことがわかった。
ビュルガー⽒は、⾷べたときキビ粒⼤の真珠をかんで痛い⽬にあったが、真珠を得たのは幸せだった。」
 

2⽉17⽇[旧暦1⽉11⽇]

 

【佐賀の武雄温泉にて、殿様⽤の温泉に⼊浴する】

「使節とわれわれは、肥前藩主の浴場で⼊浴する許可をえた。⽊製の浴槽で、湯元から湯が運ばれた。
その清潔さは驚くほどで、もともと⽔晶のように透きとおっていた湯を、
まえもって⾺の尾で作った細かい篩(ふるい)でこすのである。
塚崎(武雄温泉のこと)は⼩さな町で、嬉野温泉と似通った病気に利⽤され、
たいへん効能があるといわれているので、たくさんの⼊浴客が訪れる。」

 

2⽉22⽇[旧暦1⽉16⽇]

 

【⼩倉から下関までの海峡を⾈で渡りながら、測量を⾏う】

「好天に恵まれて、われわれは⼩倉から下関まで三⾥の距離を数時間かかって直接渡った。
……ビュルガー⽒と私は、⾈の前部に席をとっていた通詞や給⼈たちの仲間に加わった。
通詞たちは、われわれがコンパスや深度測定の錘(おもり)を使って観測しようとしているのを非常によく知っていたが、
職務上われわれの作業についてたずねた給⼈に対しては、まったく知らないふりをし、
こういうことはわれわれの⽅の悪意のない物好きだと説明した。」

◆下関

2⽉22⽇[旧暦1⽉16⽇]

 

【下関に到着し、シーボルト⼀⾏は⼿厚い歓迎を受ける】

「今やわれわれは夢中で眼前にある港町を眺め⼊った。
……掲げられたオランダの旗は、ここの市⻑がオランダ⼈を⼿厚く⾃分の家に招待しようとして、
オランダ⼈と親しい他の友⼈といっしょに待っている場所を、使節の⼀⾏に⽰していた。
……市⻑[伊藤杢之允盛永]が使節のところに来て挨拶したが、この⼈は熱烈なオランダ⼈びいきで、
⾃分はこういう者だとすぐ名刺を通して名乗り出た。
ひいきと呼んだのは、名刺にファン・デン・ベルヒ[これは⼀⼋〇六年伊藤杢之允に対しヅーフが命名した]
と書いてあったからである。」
 

2⽉23⽇[旧暦1⽉17⽇]

 

【シーボルトの弟⼦たちと再会し、歓迎の贈り物を渡される】

「早朝から数⼈の⾨⼈が私を訪ねてきたが、その中に医師の⾏斎がいた。
……この国の⾵習に従い私に歓迎の贈物をもって来たが、それらの品々は彼らが珍しいと思っている
⽇本の天産物やその他の⽣産物であった。
その中には珍しいノガモ、ウミガニ(ヘイケガニのこと)、タツノオトシゴ、ヨウジウオおよび新種のカワガニのほかに、
たくさんの乾腊植物、ホウキタケ、鉱物類などがあった。」

2⽉24⽇[旧暦1⽉18⽇]

 

【関⾨海峡を、東インド政庁総督の名から「ファン・デル・カペレン海峡」と命名する】

「私はビュルガー⽒と⾨⼈たちに今⽇は天産物の採集を任せ、この好機を利⽤して⼀連のコンパス測量で、
海峡の⼊⼝の最も重要な地点を決めることにした。
神社の麓の珪質板岩の上で、全東インドにおいて崇拝されているファン・デル・カペレンの名をつけることになった
この海峡の⼊⼝の図をスケッチした。」

 

【市⻑とオランダ流の⼣⾷パーティーで楽しく過ごす】

「ファン・デン・ベルヒ(市⻑のこと)は、まったくヨーロッパ⾵の調度をおいた部屋にわれわれを迎え⼊れもてなしたが、
たんにオランダ流というだけではなくて、恐らくわれわれをまったく故郷にいるような
気分にさせようとして、オランダの⾐装を着てでてきた。
……ファン・デン・ベルヒはこの劇(オランダ流の喜劇のこと)で代⽗の役を上⼿に演じ、
また時折り素朴な⾈唄を歌ってきかせてくれた。」

2⽉26⽇[旧暦1⽉20⽇]

 

【最も有能な⾨⼈たちと再会し、学位論⽂の提出を受ける】

「⾨⼈のうち最も有能な⼈たちとの再会は、すべて約束のとおりであった。彼らはオランダ⼈の先⽣のもとを去るに当って、
めいめい故郷で学位論⽂を書き、それを参府旅⾏の途上にある先⽣に⼿渡すという条件のもとに、
堂々たるドクトルの免許をとっていた。」

※このとき受け取った論⽂は、杉⼭宗⽴『塩の製造について』、⾼野⻑英『鯨ならびに捕鯨について』など。
翌⽇、⾼野⻑英は平⼾で捕鯨に携わる者をシーボルトに紹介しています。

◆瀬⼾内海

3⽉2⽇[旧暦1⽉24⽇]

 

【下関を出港し、兵庫に向けて瀬⼾内海を航海する】

「⼋時ごろ、⻄⾵をうけて出帆し、潮流にたすけられ早い速⼒でファン・デル・カペレン海峡を通過する。
……周囲の⼤きい島々は、海岸と海岸の間に横に広がって無数の海峡を形成し、そのため外国船にとっては、
この迷路を通って危険な航海をすることは今⽇までは不可能であった。
しかし⽇本の船乗りはこの⽔路に精通しているので、すっかり任せておいても⼼配はない。」

3⽉6⽇[旧暦1⽉28⽇]

 

【岡⼭の⽇⽐に寄港し、塩⽥を観察する】

「⽇⽐の塩⽥は⾮常に注⽬すべきものである。海の塩はこのあたりでは、天⽇で蒸発させる⽅法で海⽔から精製される。
これは⽇本における唯⼀の、⼀般に⾏われている製塩法である。
海塩あるいは⾷塩を、ヨーロッパで知られている⼾外で蒸発させて採るやり⽅と⽐較すると、
⽇本⼈のもつ設備と⽅法ははるかに完全に近い。」

◆兵庫・⼤阪・京都

3⽉9⽇[旧暦2⽉1⽇]

 

【室上陸から姫路までの道中、ヒバリの鳴き声で故郷を思い出す】

「この魅⼒のある地⽅で、私は⻑い間聞かなかったヒバリの歌を初めて聞いた。
その歌声は故郷で過ごした⻘年時代の⽢い思い出とひとつになって、楽しい⼼をなおさら引き⽴ててくれた。」
 

 

3⽉14⽇[旧暦2⽉6⽇]

 

【⽇本第⼀の商業都市 ⼤阪における滞在が始まる】

「⼤坂は幕府の⽀配下にある五つの直轄地のひとつである。摂津国の中⼼地でこの国第⼀の商業都市でもある。
それはこの町が船の往来のはげしい内海の東端に位置し、本州という⼤きな島の⻄部、
四国および九州との連絡がよいことによるし、同時にこの国の古い都、
京都および以前の皇室料地である五畿内との交通に便利な、
舟の通える⼤きな淀川の河⼝に位置していることが、商業にとって好都合なのである。」
 

3⽉18⽇[旧暦2⽉10⽇]

 

【京都の美しいまちなみに感⼼する】

「京都に向かって出発。私はビュルガー博⼠と伏⾒の町を歩いて⾏った。この町の郊外と京都の郊外とは続いている。
われわれは京都にゆく途中で稲荷⼤社を訪れた。この稲荷では建物のケバケバした⾚い⾊とすばらしい清浄さがとくに⽬についた。
……そこここには美しい神社仏閣がそびえ⽴ち、街路はよく整備されて道幅は広く、住⺠の秩序もかなりよかった。」

◆東海道

3⽉25⽇[旧暦2⽉17⽇]

 

【京都を出発し、琵琶湖を⼀望する】

「京都をたち、四条の橋を渡る。
……少し進むと、近江の湖または琵琶湖と呼ばれる有名な湖⽔の東南[⻄南側の誤り]にある⼤津の町に着く。
……われわれは⼀軒の茶屋に⽴ち寄り、湖上に突き出している⾒晴し台からすてきな景⾊を楽しんだが、悪天候と冷たい東⾵とでだいぶ感興をそがれた。」

3⽉26⽇[旧暦2⽉18⽇]

 

【⽇本を象徴するトキの剥製を⼿に⼊れる】

「⼤野でたいへんよくできている剥製の⿃をいくつか買い求めた。
すなわち⼆⽻のトキで、⾚いバラ⾊の翼をもつものと、もう⼀⽻は⽩い⽻根があるものだったし、
そのほかに⼆、三⽻の他の⽔⿃もあった。このトキはこのあたりの⽥畑によく姿をみせ、
シラサギといっしょにいることがある。」

3⽉27⽇[旧暦2⽉19⽇]

 

【後にヨーロッパへ渡る オオサンショウウオを⼿に⼊れる】

「われわれはスサキ[鈴⿅の誤り]で休み、けわしいけれど⼿⼊れのよい⼭道を越えて坂ノ下に向かう。
ドクトル⻑安[⾨⼈の湊⻑安」は私のために⼆、三⽇先⾏していた。
私は彼の⾻折りでたくさんの⼭の植物と⼀匹の珍しいサンショウウオを⼿に⼊れた。」

 

3⽉29⽇[旧暦2⽉21⽇]

 

【出島から⽂通していた優秀な植物学者 ⽔⾕助六と出会う】

「私はとくに⼆冊の⾁筆の画帳に注⽬した。それは⽇本植物のコレクションの図であるが、
すべて正確にリンネによる名称で分類し、すべての植物に属名をあげていた。
……私は⽔⾕に植物解剖学を簡単に教え、この地⽅の珍しい植物を集めるように依頼した。
この⽴派な⼈と親交を結んだおかげで、⽇本の植物群に対する私の知識はいちじるしく増⼤したのである。」

4⽉2⽇[旧暦2⽉25⽇]

 

【静岡の藤枝にて、⼤井川の激流を渡る】

「⾮常に速く流れるいくつかの川筋には橋が架かっておらず、渡河に⾈を使うことはない。
だから⼈や荷物は、とくに鍛え上げた⼒の強い⼈の肩⾞か輦台(れんだい)に乗って、状況によって⼆⼈から⼗⼆⼈までが交替で⽀え、
流れと闘い⾸まで⽔に浸って向う岸に渡るのである。
……動かぬようにしっかりと輦台にくくりつけておいた駕籠に乗りこみ、⼤声を出している半⼈半⿂の男たちにわが⾝を委せた。
この熟練した川越え⼈⾜は、楽々とこの急流を渡ってわれわれを[向う岸に]運んでくれた。」

4⽉7⽇[旧暦3⽉1⽇]

 

【神奈川の箱根にて、富⼠⼭の素晴らしい景⾊を望む】

「⼭の⾼さが増すにつれて、地⾯には植物が少なくなり、ところどころにやせた⻑い草が⽣えていた。
われわれは、今まではたいした困難も覚えずに道を登りながら、箱根の⼭なみの彼⽅にそびえ⽴つ、円錐形の富⼠⼭を望むすばらしい景⾊をみて楽しんだ。」

COLUMN

⻑崎街道シュガーロード|Ⅱ. そして、砂糖は旅に出る

江⼾時代、⻑崎から福岡(⼩倉)までをつないだ⻑崎街道は、57 ⾥(228km)の距離に25の宿場町が整備された九州随⼀の⼈流・物流ルート。出島⼀の輸⼊品 砂糖は、⻑崎街道(⻑崎〜佐賀〜福岡)を通ったあと、航路によって⽇本⼀の商業都市 ⼤阪へ渡って、⽇本全国に届けられました。
⻑崎では、遊⼥に贈られる“もらい砂糖”、貿易の労働報酬“こぼれ砂糖”などがもたらされ、独⾃の砂糖⽂化が育まれました。また佐賀藩・福岡藩においても砂糖の藩内流通のシステムを築きあげたことで、砂糖⽂化を持ったまちが連なる“シュガーロード”が形成され、九州の⽢⼝⽂化の礎となります。

⻑崎街道シュガーロード|Ⅱ. そして、砂糖は旅に出る-1

⻑崎街道シュガーロードマップ

⻑崎街道シュガーロード|シュガーロードものがたり

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