第3章 江⼾参府ダイアリー《後編》-1

第3章 江⼾参府ダイアリー《後編》 第3章 江⼾参府ダイアリー《後編》

著作三部作の図版に関する出来事を中⼼に、⽇本研究の大冒険“シーボルトの江⼾参府”の後編(復路:江⼾〜⻑崎)をダイジェスト。シーボルトが残した図版と⽇記本⽂を添えて。

◆江⼾

4⽉10⽇[旧暦3⽉4⽇]

 

【ついに旅の⽬的地 ⼤都市 江⼾に到着する】

「礼装をして六時に将軍の居城地に向かって出発する。
……そして⼤都市に着いたことは、両側に⽴派な商店が⽬につくにぎやかな通りにはいってきて、はじめて気づいたのである。
……ちょうど⼆時に宿舎に着いた。到着するとすぐに、江⼾在住の⻑崎奉⾏の代理として、⼆⼈の上検使が姿を⾒せた。
彼らは⾮常に⾼慢な態度で使節に覚え書を渡したが、その内容はわれわれの江⼾到着に寄せる祝辞と、
古い慣例によってすべてに気を配り、それに従って⾏動するよう要請するものであった。」

 

 

4⽉12⽇[旧暦3⽉6⽇]
 

【薩摩の元城主、中津の元城主と親交を深める】

「われわれは朝、島津の⽼候から織物、⽣きている⿃、植物などたくさんの贈物をいただいた。
みな⽇本的な趣向で⾮常に美しく並べてあった。夜には中津のご隠居がお忍びでみえ、夜更けまでいらっしゃった。
われわれはできるだけ候をもてなした。⾳楽、歌謡それからダンスなどもして⼼から楽しく過ごした。
候はダンスを⽇本の舞いと⽐較して次のような⾒解を述べられた。
『オランダ⼈は本当に⾜でおどるが、⽇本⼈はこれと違って⼿でおどる』と。」

 

4⽉16⽇[旧暦3⽉10⽇]
 

【北⽅探検家 最上徳内と出会う】

「本当にこの⼗六⽇はとくに⽩い⽯でもって記⼊すべき⽇なのである。最上徳内という名前の⽇本⼈が、
⼆⽇間にわたってわれわれの仲間を訪れた時に、彼は数学とそれに関係ある他の学問に精通していることを⽰した。
……彼は絶対に秘密を厳守するという約束で、蝦夷の海と樺太島の略図が描いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた。」

※以降、⾮常に親しくなった最上徳内と蝦夷語(アイヌ語)編纂の共同作業を連⽇⾏います。


 

4⽉20⽇[旧暦3⽉14⽇]

 

【幕府の侍医たちに眼科⼿術を披露する】

「私は今⽇、眼の解剖と最も⼀般的に⾏われている眼の⼿術について講義をすることにしていた。
幕府の侍医たちはこれに⽴ち合い、しきりに喝采した。私はこの⼈たちが贈物としてくれた豚を使って⼿術をした。」
 

5⽉1⽇[旧暦3⽉25⽇]

 

【将軍への拝礼】

「使節が拝謁にでる合図があった。奉⾏ならびに数名の廷⾂が使節を案内し、⼆⼈の上検使と通詞が随⾏し、
それからわれわれはそっとついて⾏った。
―使節とその⼆⼈の随伴者にとってはたいへん名誉なことであった―

⼤広間の⼆つ⽬の曲り⾓のところで⼆⼈の上検使はあとに残り、通詞は三つ⽬の⾓まで従った。
そこで使節が⼀瞬⽴ち⽌まると、⼤名や他の⾼官たちはじろじろと彼を眺めた。それからすぐに低いシーという声が聞こえた。
これは最⾼位の⼈が近づいて来られる合図であった。

みんなは急いでめいめいの定めの席についた。そこで奉⾏は使節を伴って⼩さい謁⾒の間の第⼀の柱のところまでゆくと、
⼤通詞はその廊下の床に平伏したが、使節はなお⽴ち⽌っていた。
それから⼆⼈の外⼈接待係と同じように廊下の板床に座っていた奉⾏は、使節を数歩先の例の畳が敷いてある三段の階段の前⽅にある廊下の表側にある拝謁席に伴った。
使節はここで跪き低く頭を垂れていたので、前⽅の⾦張りの⽊彫を⾒ただけで、将軍の影さえ⽬にはいらなかった。

不意に伝奏者[奏者番]の『オランダ・カピタン!』という声が響いた。
―奉⾏は深く跪いて敬意を表している者の服を引き―拝謁は終った。」

5⽉7⽇[旧暦4⽉1⽇]

 

【天⽂学者 ⾼橋作左衛⾨と約束を交わす】

「天⽂学者グロビウスこと⾼橋作左衛⾨来訪。蝦夷・樺太のすばらしい地図を私に⾒せた。
……私は⾼橋を通じ、この群島についての地理学上の著作、すなわちサンタン旅⾏に関する⽇本⼈、
間宮林蔵の⽇記、樺太の記述をもらう約束をとりかわす。」


 

5⽉15⽇[旧暦4⽉9⽇]

 

【禁制品の⽇本地図を⼊⼿する】

「グロビウス(⾼橋作左衛⾨)が来て私に⽇本の美しい地図をみせ、
これを世話することを約し、後⽇その約束を果たした。」

※この禁制品の⽇本地図は、後のシーボルト事件の発端となります。

■東海道(帰)

5⽉18⽇[旧暦4⽉12⽇]

 

【帰路に向けて、江⼾を出発する】

「出発の朝、⻑崎奉⾏の⼆⼈の上検使が来て、⼀通の書状を⼿渡した。
それには、使節に対して江⼾での使命がつつがなく終ったことに奉⾏はとくに満⾜している、と書いてあった。
……われわれは有名な⽇本橋、京橋を渡って進み、芝⼝、⾦杉、海のすぐ近くにある⾼輪、品川の町を通って⾏った。
……われわれが江⼾滞在中、たびたび⾒た富⼠⼭は実にすばらしかった。
とくに視界が澄んでいる朝の涼しい時には、この天にそびえるピラミット型の⼭は間近にあるように⾒える。」

5⽉24⽇[旧暦4⽉18⽇]

 

【藤枝の⼭中で、アジサイを⾒つける】

「この⼭岳地帯の植物群は南⽇本のそれと異なり、クスノキ科の⽊やバンカジュ、テンニンカはまれでアジサイ、ウツギ、
クロモジ、ニワトコ、ネズミモチ、カシワ、ケヤキ、ブナおよびカエデのいろいろな種類が森をなしている。
……夜おそくまで採集した植物の整理や乾腊に時を過ごした。」


 

 

5⽉27⽇[旧暦4⽉21⽇]
 

【愛知にて、親交のある植物学の協⼒者たちと再会する】

「⼣⽅鳴海につき、遅くなってようやく宮に到着。親交のある植物学者たち[⽔⾕助六、⼤河内存真、伊藤圭介]が私を出迎え、
この付近の植物の乾腊標本といろいろな植物の図をたくさんもって来た。
夜中の三時までこれらの植物を調べたり、同定したりして過ごした。
われわれはたがいに⽂通したが、それは私の帰国の時まで誠実に続けられた。」

◆京都・⼤阪(帰)

6⽉2⽇[旧暦4⽉27⽇]

 

【京都にて、⾨⼈により珍しい植物を出島に送った朗報を聞く】

「到着後まもなく友⼈や⾨⼈が私を訪ねてきて、以前頼んでおいたことを⽴派に実⾏して、
私に対して好意を持っていたことを⽴証した。
なかでも⾨⼈の慶太郎が京都周辺の植物群のうち珍しいものを私の出発直後に集めて、
出島の植物園に送ってくれたことを聞いて、たいへん嬉しかった。」

6⽉7⽇[旧暦5⽉2⽇]

 

【京都の寺社仏閣を観光する】

「われわれは今⽇出発することになっていた。正午ごろ三条⼤橋を渡り、
智恩院に向かう。約三千畳敷きの⼤きな建物である。
現在国を治めている将軍家の始祖[家康]の記念額がここにある。
ここからわれわれは祇園社に⾏き、⾮常にたくさんの⾒物⼈に取り囲まれて、
茶屋で少し飲んで元気をだし、天台宗の清⽔寺に⾄り、前⽅に広がる町の⻄北部のすばらしい景⾊を⾒る。
禅宗の⾼台寺、真⾔宗[正しくは臨済宗]の⼤徳寺、⼀向宗の⼤⾏寺、浄⼟宗の⼤恩寺などの寺が⾒えた。」

6⽉10⽇[旧暦5⽉5⽇]


【⼤阪の天王寺にて、以前購⼊したニホンオオカミ(現代では絶滅種)を思い出す】

「動物のうちには興味深いカモシカのほかにクマ、シカ、サルなどを
⾒つけた。以前すでにここで⼀匹のオオカミと野⽣のイヌ(ヤマイヌ)を買ったことがある。」
※貴重なニホンオオカミの剥製は、シーボルト・コレクションとして収蔵されています。

 

6⽉11⽇[旧暦5⽉6⽇]

 

【⼤阪の銅精錬所を⾒学する】

「オランダや中国の商館に銅を供給している商⼈のもとに赴き、そこで粗鉱から延棒に鋳込むまでの製銅法の全過程を⾒た。
たいへん裕福なこの男はわれわれをまったくヨーロッパ流にもてなし、そのうえオランダの⾷器さえ持っていた。
またオランダ⼈のファンであるこの⼈は、製銅法を簡単に記した本と、
粗鉱から精製した銅の延棒までを順序よく取り揃えた⽴派な標本とを私に贈ってくれた。」
 

 

6⽉12⽇[旧暦5⽉7⽇]

 

【⼤阪で⽇本の歌舞伎を観覧する】

「ちょうど妹背⼭という外題で有名な芝居が上演された。
役者の中にはたくさんの⼀流芸術家がおり、彼らはヨーロッパでも⼀般の拍⼿を受けたであろう。
国⺠性と情熱のたくまない表現とがひとつになった彼らの⾝振りや台詞まわしは、まったく賞賛に値するものであったし、
彼らの⾼価な⾐装はその印象を強め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた。」
 

 

6⽉14⽇[旧暦5⽉9⽇]

【⼤阪を出発する】

■瀬⼾内海(帰)

6⽉19⽇[旧暦5⽉14⽇]

 

【室から下関に向けて、瀬⼾内海を横断する⾈に乗る】

「午後乗船し、⼣⽅ちかく都合のよい北東の⾵を受けて錨をあげ、明⽯と淡路島の間にある北側の海峡を通過する。
……淡路島の⻄南端と、阿波の東北海岸の間を通る南側の海峡は鳴⾨という。
すなわち⾳の鳴る⾨ということで、泡⽴つ流れが激しく波と砕けることからこういうのである。」
 

 

6⽉28⽇[旧暦5⽉23⽇]

【下関に到着する】

■九州(帰)

6⽉30⽇[旧暦5⽉25⽇]

【⼩倉に渡る】

 

7⽉1⽇[旧暦5⽉26⽇]

【⼩倉を出発し、⻑崎までの街道を進む】

 

7⽉5⽇[旧暦6⽉1⽇]

【⼤村で、出島からの嬉しい便りを受け取る】

「われわれはまだ早い時間に⼤村に着き、出島にいる友⼈から、みな元気でわれわれの帰りを待ち望んでいる、といううれしい便りを受け取った。」

7⽉7⽇[旧暦6⽉3⽇]

 

【ついに旅のゴール地点、出島に帰り着く】

「今⽇正午ごろわれわれは同郷⼈に迎えられて、ほとんど五ヶ⽉に及ぶ不在の後に、
この困難な旅⾏を終えて再び無事に、使節がたいそう憧れていた出島のわが牢獄に帰り着いたのである。
荷倉役から、いわゆる将軍の旅⾏免許状がはいっていたクスノキの古い箱の鍵が、彼の⽇記といっしょに使節に⼿渡された。」

COLUMN

⻑崎街道シュガーロード|Ⅲ. 優美な菓⼦⽂化 花ひらく

⻑崎街道は、砂糖のほかにも外国由来の製菓法なども⼊⼿しやすく、⻑崎のカステラ、有平糖、ザボン漬けなどをはじめ、⻑崎街道沿いのまちにおいては砂糖をたっぷり使った優美な菓⼦⽂化が花ひらきました。⻑崎では砂糖をたくさん使うことが最上級のおもてなしとされ、菓⼦や料理が⽢くないときは、「砂糖が⾜りない」と⾔わず、「⻑崎が遠い」と⾔われるほどでした。歴史⽂化のストーリー「砂糖⽂化を広めた⻑崎街道〜シュガーロード〜」は、2020年、⽇本遺産に認定されており、今もなお⻑崎街道沿いのまちでは⽢くて美味しい郷⼟菓⼦を楽しむことができます。

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