龍馬、近代的な会社組織を立ち上げる!
後藤象二郎と意気投合した龍馬は、早速、経営難に陥っていた亀山社中を発展的に解散して、新たに「海援隊」を結成します。やる気と才能さえあれば、身分の隔てなく、誰でも自由に商売ができる。そんな海外の進んだ考え方を長崎で学んだ龍馬は、さらなる飛躍に向け、再起を図ります。
土佐藩の後ろ盾を得て、隊長に就任
後藤象二郎と手を結んだ龍馬は、土佐藩の後ろ盾を得て「海援隊」を発足。龍馬は隊長に就任します。メンバーは亀山社中と同様、土佐藩及びその他の藩を脱藩した浪士が中心となり、水夫を含めると総勢50名ほどの大世帯になりました。海援隊発足と同時に定められた約規によると、海援隊は海外に目を向け、運輸、射利(営利)、開拓、投機、土佐藩の応援を主な事業としたほか、出版なども手がけ、英語の入門書なども発行していました。武士出身の龍馬でしたが、当時の武士の多くが卑しいと考えた商業活動を事業の中心に据えているところが、商いを通じて犬猿の仲だった薩摩と長州を結んだ龍馬らしい実に進歩的な組織でした。
土佐商会と岩崎弥太郎
海援隊の経理部門のような役割も果たした土佐商会
土佐藩の後ろ盾を得て結成された海援隊の給料の支払いは、土佐商会の岩崎弥太郎が行いました。土佐商会は土佐藩が経営する商社で、弥太郎は龍馬と同様、土佐藩では身分の低い下級武士でしたが、後藤象二郎によって長崎での責任者に抜擢されました。弥太郎はのちに土佐商会の権利を譲り受けて三菱商会を設立。三菱財閥の礎を築きます。
交渉ごとに東奔西走する龍馬
海援隊の船出も、実は前途多難な幕開けでした。慶応3年(1867)4月、海援隊が運行するいろは丸が、紀州藩の明光丸と瀬戸内海で衝突し、いろは丸が沈没してしまいます。龍馬は、相手が徳川御三家の紀州藩ということもあり、土佐藩の後藤象二郎を表に立てて長崎の聖福寺で交渉し、約8万3000両の賠償金を引き出しました。同年7月には、英国軍艦イカルス号の水夫が、長崎の花街・丸山で何者かに殺害され、その嫌疑が海援隊士にかけられました。この頃、龍馬は京都で徳川将軍家が政権を朝廷に奉還する「大政奉還」の準備に奔走していたのですが、この事件を聞いて長崎に駆けつけ、海援隊の責任者として長崎奉行所に出頭しました。事件は結局、証拠不十分でお構いなしとなりましたが、龍馬がこの騒動に翻弄されたために、大政奉還という国事が遅れたともいわれています。