長崎市の特徴(文化)-1

長崎市の特徴(文化) 長崎市の特徴(文化)

江戸時代の初期まで朱印船貿易の港として、ポルトガル、オランダ、イギリス、今の中国など、世界の国々との交易が行われていた長崎。鎖国時代が始まってからも、長崎(和)だけはオランダ(蘭)と中国(華)との交易が許されていたことから、それぞれの国の文化が混ざり合って、独自の文化が育まれてきました。異国情緒あふれる雰囲気は今に引き継がれ、「和華蘭(わからん)文化」とも呼ばれています。

オランダとの交流で伝わったもの

オランダから学んだもの「西洋医学と科学」


日本に当時最新の医学を伝えたのは、出島に赴任した医師たちでした。約200年もの長きにわたって、年に1人か2人の医師が長崎を訪れており、その数は約63人といわれます。日本人の中には、オランダ商館の医師に医学を学ぼうと長崎を訪れる人たちがいましたが、出島の中に入るのは難しく、その学ぶ機会は限られていました。そこで大きな役割を担ったのが、1823年に来日したシーボルトです。シーボルトは、幕府から許可を得て、医学教育のための学校「鳴滝塾」を開設したのです。
 

シーボルトが医学教育のために開いた「鳴滝塾」


「鳴滝塾」には、シーボルトの名声を聞いて全国から集まった塾生たちが集まりました。シーボルトは塾生たちを宿泊させて医学教育を行いましたが、その内容は、市民の治療の実演、基礎医学や診断法、科学全般と、多岐に渡っていたということです。

シーボルトはどんな人?


シーボルトは、ドイツ生まれの医学者、植物学者です。鳴滝塾の門下生を通して、最先端の西洋近代医学を日本に伝えました。また、日本の自然や文化を科学的な視点から総合的に調査して、ヨーロッパに紹介したことも大きな業績です。シーボルトによって収取された日本の動植物や民俗学資料、さらにはシーボルトの三部作といわれる『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』は、今日においても学術的に高く評価されています。

シーボルト事件とその後


1828年、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に禁制の日本地図が見つかりました。当時、日本の地図を国外に持ち出すことは固く禁じられており、死罪に値するほどの重罪です。シーボルトは国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。これがシーボルト事件です。その後、日本が開国して再び長崎を訪れたシーボルトはお滝さんという女性と結婚をし、アジサイの学名を「ハイドランゲア・オタクサ」と名づけたのは有名です。

【シーボルト記念館 】
(所在地)長崎市鳴滝2-7-40
シーボルトゆかりの鳴滝塾隣接地にあります。建物の外観は、 オランダにあるシーボルト旧宅をイメージした赤レンガ洋館づくりの3階建て。シーボルトに関する資料約1,500点を収集し、うち216点を常設展示。日本近代医学の父・シーボルトのすべてを一同に集めた資料館。

中国との交流で伝わったもの

中国との交流


街並、祭り、食文化に残る中国の影響
中国の船が長崎に初めて来航したのは、1562年のことです。1570年に長崎港がポルトガル貿易港として開港されると、数多くの唐船が来航し、ポルトガルやオランダ貿易と同様に中国貿易も盛んに行われるようになりました。今でも長崎新地中華街としてにぎわいをみせる辺りは、「唐人屋敷」や「新地」という歴史の地ですし、「長崎くんち」などの祭りや食文化にも、中国の影響が色濃く残っています。色鮮やかな中国文化との長年の交流が、“異国情緒豊かな町”と形容される長崎独自の雰囲気の源流にあるのでしょう。

長崎新地中華街へとつながる


「唐人屋敷」と「新地」
唐人屋敷は、密貿易の防止を目的として、1689年に完成しました。練塀などで二重に囲まれた敷地内には、たとえ奉行所の役人でも出入りが制限されていたということです。幕府の鎖国政策が終わると、在住中国人は海岸の近くに造成された「新地」に移り住むようになり、ここが現在の長崎新地中華街となっていったのです。

長崎の中で触れる中国


唐寺や孔子廟
唐寺や眼鏡橋など、中国との歴史的な交流を示す建物が多く残っています。孔子廟は孔子の遺品を納め祀ったのが始まりで、明治26(1893)年、中国清朝政府と華僑によって建造されました。併設の中国歴代博物館には、北京故宮博物院提供の宮廷文化財や中国歴史博物館提供の出土文化財など、長崎と中国でしか見ることができない貴重な品が展示されています。

鮮やかな中国カラーが魅力


長崎の祭り
10月7日から9日まで行われる長崎の代表的な祭り「長崎くんち」には、龍踊り、唐人船、龍船などといった中国ゆかりの出し物があります。また、晩春から夏にかけて行われる「ベーロン競漕」は、長崎在留の中国人が始めたイベント。秋の「中秋節」では黄色に輝く満月燈籠が、冬の「ランタンフェスティバル」では赤色のランタン(中国提灯)が通りを彩り、町はいっそう異国情緒ただよう幻想的な雰囲気になります。

キリスト教との関連

キリスト教文化が華開いた長崎


美しい教会群
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、1549年にはフランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝えられ、長崎で繁栄しました。布教の本拠地であった長崎にはその象徴ともいえる教会群が数多くあります。

弾圧が強まり、やがて鎖国


潜伏キリシタンとして信仰を続ける
長崎で広まったキリスト教ですが、平等を説くその教えや信者の団結力が、天下統一を妨げることを懸念して、豊臣秀吉は1587年に「伴天連追放令」を発令。フランシスコ会の修道士および信者ら26人が長崎の西坂で処刑されました。江戸時代に入った1614年、江戸幕府は全国に禁教令を発布。全国でのキリシタン摘発が始まりました。踏絵や雲仙地獄の熱湯につける拷問など、その弾圧は厳しいものでした。

象徴的な事件は1637年に勃発した「島原・天草一揆」。キリシタンを中心とする島原・天草の領民3万7千人が一揆を起こし、幕府軍によって女性や子供も含め、そのほとんどが殺されてしまいました。今に残る原城跡は、当時の凄惨な様子を伝えています。その後さらにキリシタンの取り締まりは強化され、鎖国体制が確立。それから解禁されるまでの約250年間、キリスト教は禁止とされました。こうした中でも、密かに信仰を守り続けたのが、「潜伏キリシタン」と呼ばれる信徒たちです。観音像をマリアに見立てるなど、さまざまな姿かたちに隠して、または変化させて信仰をつなぎ続けたのです。

キリスト教史上稀有な「信徒発見」


大浦天主堂を舞台
1859年に長崎が開港し、1864年、外国人の居留及び交易地域として定めた外国人居留地にフランス人宣教師によって大浦天主堂が建立され、翌年教会堂を神にささげるため、献堂式が行われました。その献堂式から1カ月後、浦上で密かに信仰を続けてきた潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父にキリスト教を信仰していることを告白したのです。250年もの月日の中で絶たれたものとされた信仰が受け継がれてきたことに驚いた神父は、信徒たちをマリア像の前まで導きました。この「信徒発見のマリア像」は、いまも大浦天主堂に安置されています。信徒発見は、世界宗教史上の奇跡として、世界のカトリック関係者に強い衝撃を与えました。

世界遺産登録を目指す長崎の教会群とキリスト教関連遺産で長崎市に所在する施設


日本二十六聖人記念碑
イエズス会の後に来日したフランシスコ会の宣教活動が秀吉の禁教令に対して挑発的だとして、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。京都で市中引き回しとなった上に、「長崎で処刑せよ」と、大阪から長崎まで素足で歩かされたのです。

この26人の中にはルドビコ茨木というまだ12歳の少年がいました。幼い彼を哀れに思った役人が「ここで信仰を捨てなさい。命は助けるから」と説得します。しかしルドビコ茨木は毅然として「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」とこれを拒みます。そればかりか、用意されていた十字架のもとに走り寄り、「パライソ(天国)、イエス、マリア」といって喜びを表現したと伝えられています。

26人の殉教のニュースは世界を駆け巡り、ローマ教皇とスペイン皇帝のもとへも殉教報告が届けられました。殉教から30年後の1627年、世界の信者の模範となるその信仰心の強さを称え、ローマ教皇はフランシスコ会の23人を、1629年にはイエズス会の3人を福者※に列し、さらに1862年、この26人の福者は聖人とされました。それから100年目の1962年、この丘に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。

※福者 カトリック教会において死後、その徳と聖性を認められた者に与えられる称号。その後、さらに最高位の称号である聖人に列せられることもある。
(所在地) 長崎市西坂町7-8
 

長崎ことはじめ

長崎から始まったモノやコト
かつて日本の窓であった長崎は、他国から渡来して日本全国に広まっていったモノやコトがたくさんあります。そんな「長崎ことはじめ」をピックアップしてご紹介します。

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