日本の近代化に貢献したグラバー

安政の開国によって安政6年(1859)に開かれた長崎の港から、若いスコットランド出身の青年が上陸しました。彼の名はトーマス・ブレーク・グラバー。長崎きっての観光名所「旧グラバー住宅」の主人として知られるグラバーは、当時まだ21歳。祖国から遠く離れた極東の地で、ビジネスでの成功を夢見る野心にあふれる青年でした。幕末の動乱期に薩摩藩などの志士たちと交流を深めたグラバーは、船や大砲、鉄砲などの武器を輸入し、それらを彼らに売ることで、江戸幕府を倒す影の立役者となりました。明治維新後も日本に残り、実業家として明治日本の産業革命に多大な貢献をしたグラバーの生涯を追ってみましょう。
  • 若き日のグラバー(長崎大学附属図書館蔵)

    若き日のグラバー(長崎大学附属図書館蔵)

グラバーは、安政の開国直後の安政6年(1859)に、当時、東アジア最大の貿易会社であったジャーディン・マセソン商会に雇われて長崎にやってきた21歳のスコットランド人です。当時、長崎にはジャーディン・マセソン商会の先任代理人がいましたが、2年後に中国へと転勤になったため、グラバーはその業務を引き継いで、23歳で「グラバー商会」を立ち上げ、独立しました。
グラバー商会では当初、茶や生糸の輸出を主に扱っていましたが、日本の幕末の動乱に目をつけ、薩摩藩などの倒幕派を支援し、武器や弾薬などを販売して明治維新の成立に大きな影響を与えました。
その他にも、慶応元年(1865)に、長崎港に面する大浦海岸通りに約500メートルのレールを敷き、客車をつけた蒸気機関車を日本で初めて走らせたことで、当時の日本人の度肝を抜いたというエピソードが残されています。
明治維新後も日本にとどまり、小菅修船場の建設や高島炭鉱の開発など、日本の近代化に尽力し、日本で73歳の生涯を閉じました。
  • 旧グラバー住宅からは長崎港を見渡すことができる

    旧グラバー住宅からは長崎港を見渡すことができる

  • 一本松があった頃のグラバー邸(長崎歴史文化博物館蔵)

    一本松があった頃のグラバー邸(長崎歴史文化博物館蔵)

長崎港の南側の丘の一本松が目印
グラバー商会を立ち上げたグラバーは、文久元年(1861)に長崎港を見渡すことができる南側の丘の土地を取得。文久3年(1863)、その土地にあった印象的な一本松の側に、和洋折衷の木造屋敷を建てて住み、ビジネスの拠点としました。当時、長崎に外国人はイギリス人とアメリカ人が最も多く、それぞれ30人ほどいたと伝えられています。大浦海岸を埋め立てた大浦海岸通りには商館や倉庫が建ち、山手には住宅が建っていました。
  • グラバーの援助によりイギリス渡航を果たした長州ファイブの面々。

    グラバーの援助によりイギリス渡航を果たした長州ファイブの面々。

近代的な西洋の武器を倒幕勢力に供給
グラバー商会を立ち上げた頃のグラバーは、ヨーロッパで需要が高かった日本の茶や生糸の輸出を主なビジネスにしていましたが、薩摩藩などから蒸気船購入の仲介などを依頼されるようになり、やがて武器、弾薬、軍艦なども手がけるようになりました。当時の日本は、ペリーの黒船来航以来、江戸幕府の政治が混乱していたため、薩摩藩など経済力のある地方の藩は、戦争に備えて近代的な西洋の武器を手に入れたがっていました。そこに目をつけたグラバーが、武器の輸入取引を始めると、坂本龍馬率いる亀山社中をはじめ、薩摩藩などからこぞって注文が入るようになり、大口の顧客になっていったのです。グラバーが輸入した西洋の近代兵器の威力は凄まじく、それらを揃えた薩摩藩や長州藩を中心とする連合軍は、旧式兵器中心の幕府軍を圧倒しました。やがて幕府は倒れ、明治維新を迎えることになります。
またグラバーは日本の若い志士たちに世界を見せる手助けもしており、その代表として薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎や、長州ファイブと呼ばれる長州藩の伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝は海外留学のためイギリスへ旅立ちました。グラバーの援助によって海外渡航を果たした人材の多くが、明治維新後の日本の政治・経済界で活躍した事実を見れば、日本の将来を見据えたグラバーの功績はとてつもなく大きいといえるでしょう。また、グラバー自身ものちに「幕府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人だった」と語ったと伝えられていることから、グラバー自身も自らを「勤王の貿易商」「青い目の志士」であると感じていたのかもしれません。
  • グラバーの手腕により、日本初の近代的採炭法を導入した高島炭鉱

    グラバーの手腕により、日本初の近代的採炭法を導入した高島炭鉱

  • 日本で初めて蒸気機関を動力とする曳揚げ装置が導入された小菅修船場

    日本で初めて蒸気機関を動力とする曳揚げ装置が導入された小菅修船場

倒産の憂き目に遭うも日本にとどまり、事業家として活躍
明治維新後の明治3年(1870)、グラバー商会は資金が滞り倒産します。理由は、幕末の動乱期に日本で大きな戦争が起こると予想したグラバーは、大量の武器を仕入れていましたが、その混乱が短期間で収束し武器が売れなくなったこと。そして、すでに売却された武器についても、明治新政府よって主な販売先であった藩が廃止されたために、代金の回収が滞ってしまったからでした。
しかし、西洋の近代的な施設・設備の導入に関するノウハウや、豊かな海外との取引経験の実績を買われたグラバーは、岩崎弥太郎率いる三菱の顧問に迎え入れられます。三菱では高島炭鉱買収にあたり、その実質的経営を任されるなど、明治維新後も日本にとどまり、事業家としての手腕を存分に振るいました。また、幕末期以降、大量に輸入された蒸気船は、日本に入ってきた時点ですでに中古船であったため痛みも早く、そうした大型船の修理を行う近代的なドックの必要性が高まると、小菅修船場の建設に尽力しました。その他にも、横浜に会った醸造所を購入して、のちのキリンビールの前身となる「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を設立するなど、日本の近代化に多大なる功績を残しました。
  • グラバーと家族(グラバー園HPより)

    グラバーと家族(グラバー園HPより)

  • 坂本国際墓地に眠るグラバー夫妻と息子夫婦の墓

    坂本国際墓地に眠るグラバー夫妻と息子夫婦の墓

日本人の妻、息子夫婦とともに坂本国際墓地に眠る
グラバーは、ビジネスのため日本を訪れた外国人でしたが、多くの日本人と交流を重ね、日本を深く愛していました。来日間もない頃には、遊女として知り合ったお園という女性と結ばれ、梅吉と名付けられた男児をもうけました。しかし、4カ月後、梅吉がはしかに罹って亡くなると、そのショックでお園は実家に帰ってしまいます。その後、グラバーには2人の子どもができますが、子どもの母親はどちらも違う女性でした。1人は加賀マキという名の女性で、出自等は不明ですが、男児(のちにグラバーの邸宅を引き継いだ倉場富三郎)を1人もうけました。その後、加賀マキはグラバーの元を去り、残された男児は次に出会う女性・淡路屋ツルに育てられます。ツルは大阪の造船業・談川安兵衛の娘で、一度武家に嫁いでいましたが離婚し、大阪に戻ってきていたところをグラバーと仲の良かった五代友厚の紹介で知り合います。ツルとの間には、女児・ハナをもうけました。
五代の他にも、グラバーは初代内閣総理大臣となった伊藤博文とも仲が良く、明治41年(1908)にグラバーが外国人で初となる勲二等旭日重光章を受章したのは、伊藤の推挙があったからといわれています。
晩年のグラバーは、住まいを東京に移し、明治44年(1911)に死去。長崎市の坂本国際墓地にはグラバーとツル、そして息子の富三郎夫婦がともに眠っています。