三菱長崎造船所関連施設

岩崎彌太郎によって創業された三菱は日本近代化に大きく貢献
土佐藩の貧しい地下浪人の長男から、日本を代表する大企業のトップにまで上り詰めた岩崎彌太郎。 彌太郎は21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学しましたが、父親が暴行を受けたという一報を聞き帰郷、暴行が庄屋の仕業だと知り控訴を起こし牢屋に入れられます。そのとき囚人に算盤商売の方法を学びました。このことが後に日本を代表する経営者に成り上がる一歩となります。 1867年に土佐藩の商務組織、土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、その後藩政改革のため閉鎖予定にあった土佐藩経営の開成館を受け継ぎ、1869年に九十九商会の名で海運業に乗り出します。明治維新後、九十九商会を三菱商会と改称、三菱商会は彌太郎が経営する個人企業となりました。 海運業に携わる彌太郎は造船業に多大な投資を行い、西洋の技術をいち早く導入。新技術を製品に活かし、船の建造だけでなく、舶用の主機や発電所の原動力となるレシプロ蒸気機関、蒸気タービン、ボイラー等の大型機械も数多く製造しました。
長崎造船所に現存する最も古い建物「旧木型場」
木型場とは、鋳物製造用の溶けた金属を流し込む鋳型を作るために、あらかじめ木で模型を作る作業をする場所のこと。「旧木型場」は、1898年に鋳物工場に併設する木型場として建設されたもので、長崎造船所に現存する最も古い建物です。西洋技術と日本の伝統的な木工技術の融合により生産されていました。 この建物は、屋根を支える小屋組みのトラスが特徴的な二階建煉瓦造りで、明治30年代に建造された現存する木型場としては国内で最大規模です。
史料館として活用されている「旧木型場」
「旧木型場」は現在、長崎造船所が近代化に果たした役割を後世に残そうと、1985年に改装されました。館内には1857年に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで約900点を展示しています。日本最古の工作機械や海底調査の泳気鐘、日本で最初の国産蒸気タービンの技術の進歩を物語る珍しい品々が展示されています。

■住所:長崎市飽の浦1-1
■TEL:095-828-4134(事前要予約)
■開館時間:9時~16時30分(ただし入館は16時まで)
■休館日:毎月第2土曜、2017年12月29日~2018年1月4日、史料館停電日2017年5月21日
■施設維持管理費:大人(高校生以上)800円、小、中学生400円
※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の所持者と介護者1名無料(介護者2人目からは通常料金)
見学方法
当日予約も可能です。
・予約TEL:095-828-4134(三菱重工業(株)長崎造船所史料館)

【個人】
JR長崎駅前から史料館専用シャトルバスに乗車。
長崎駅前発車時刻表(6便運行)/8:40、9:30、10:20、13:15、14:05、14:55
※移動時間(往復)約40分+見学時間約50分

【団体】
見学時間(約50分)
9:25~10:15、10:15~11:05、13:10~14:00、14:00~14:50、14:50~15:40、15:40~16:30
※15名以上で、自己手配のバスの方は団体扱いとなります。
  • 三菱史料館所蔵

    三菱史料館所蔵

岩崎彌太郎 Yataro Iwasaki (1835~1885)
貧しい下級武士から日本を代表する大企業のトップへ
三菱の創業者。土佐国安芸郡出身。貧しいながらも教育熱心な両親のもとに生まれ、エネルギッシュな若者へと成長します。32歳のとき、土佐藩が設立した藩営機関「開成館長崎商会」の主任に命じられると、持ち前の才能を発揮し、大いに奮戦。廃藩置県後は三菱の事業の源流となる「九十九商会」の経営を引き継ぎ、海運業に乗り出しました。その後、社名を「三菱商会」に改称。経営のトップとなり、会社は飛躍の一途をたどりました。しかし1885(明治18)年、道半ばにして50年の生涯を閉じます。様々な困難に遭いながらも信念を曲げることなく突き進んだ人生でした。三菱はその後、彌太郎の遺志に従い、弟の彌之助が引き継ぎました。
岩崎彌之助 Yanosuke Iwasaki (1851~1908)
見事な手腕で事業を確立した三菱の二代目社長
三菱の創始者、岩崎彌太郎の弟である彌之助は、三菱の二代目社長として本格的な事業の確立に努めました。新会社「三菱社」を創設した彌之助は炭鉱、造船、銅山、水道、銀行の事業を展開し、見事に軌道にのせます。そしてさらには保険業、倉庫業、農場経営など事業を幅広く拡大し、組織化に成功しました。彌之助は42歳で引退し、社長の座を彌太郎の長男・久彌へと引き継ぎました。
岩崎久彌 Hisaya Iwasaki (1865~1955)
事業の多角化を確実にした三代目社長
岩崎彌太郎の長男であり、三菱の三代目社長。学生時代はアメリカのペンシルバニア大学に留学し、主に財政学を学びました。帰国後、三菱合資会社の設立に合わせ、28歳の若さで社長に就任すると、先代社長である彌之助が進めてきた事業の多角化をひとつひとつ確実なものにしていきました。また長崎造船所に巨費を投じ、造船業の近代化にも尽力。神戸と下関にも造船所を建設しました。52歳で社長を引退しますが、それまで力を入れていた農牧事業だけはその後も取り組みを続けました。
岩崎小彌太 Koyata Iwasaki (1879~1945)
各事業の独立を進め、三菱財閥を作り上げた四代目社長
二代目社長・彌之助の長男であり、三代目社長・久彌の従弟。イギリス留学を経て、三菱合資会社に入り、副社長に就任しました。三代目の右腕として活躍し、自身が社長に就任すると、造船部門と製鉄部門を分離し、「三菱造船株式会社」と「三菱製鉄株式会社」を創設しました。その後も各事業の独立を進め、三菱は「三井」「住友」「安田」とともに4大財閥と呼ばれるようになりました。しかしながらGHQにより財閥の解体政策が推し進められ、1946(昭和21)年、三菱本社は解散。小彌太が亡くなった翌年のことでした。
外国船の修理を目的としてグラバーと薩摩藩士によって完成
幕末、長崎の外国系商社を介して買い入れた洋船は、中古船が多く故障が絶えませんでした。 ところが当時の長崎には船舶の修理、整備をする施設がなかったため、修船場を望む声が国内外の船主、船員の間に高まり、トーマス・ブレーク・グラバーと薩摩藩士(五代友厚、小松帯刀)らによって、1866年、小菅に修船場を造る計画が立てられました。建設地の小菅浦は現在の長崎港入り口に近く、狭い入り江が陸に食い込む形で延びており、船を引き込み、曳き揚げるには絶好の地形でした。 そこで英国から技術者を招き、建設を開始します。陸上から海中に174メートルのレールを敷き、船架(船を載せる台)によって船を曳き揚げる「スリップドック」が造られました。
日本の造船業の原点として価値の高い歴史的遺構「ソロバンドック」
1869年に完成した小菅修船場は、洋式の近代的ドッグで、曳揚げ小屋は現存する日本最古の煉瓦造の建物です。満潮時に船を滑り台に乗せ、曳揚げ小屋内に設置された曳揚装置とボイラー型蒸気機関で曳揚げた状態で船底を修理、整備し、修理が終了すると逆の手順で船を海に滑り下ろすようになっていました。

小菅のドックや曳揚げ小屋の建物は、日本の近代造船史上極めて重要な遺構であるばかりでなく、幕末、明治初期の工場建築遺構として、日本近代産業黎明期(れいめいき)を代表する貴重な遺構であるということが言えます。
曳揚げ小屋は日本最古の煉瓦造で、外壁に「コンニャク煉瓦」を使用
日本に現存する最古の煉瓦建築「小菅修船場跡」。ここで使われている煉瓦は、通常の煉瓦より薄い、通称「コンニャク煉瓦」と呼ばれるものです。これは、焼成温度を高くできず、通常より薄く扁平なサイズしか作れなかったからなど、諸説あります。
1869年に、長崎港において、薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーによって建設された船舶修理施設で、のちに明治政府が買収し、1887年に三菱の所有となった。現存する日本最古の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式スリップドックである。曳揚げ小屋は、現存する日本最古の本格的な煉瓦造建築で、機材一式は、グラバーがイギリスから購入した。船架の形状から通称ソロバンドックと言われ、現在も三菱重工業(株)長崎造船所の対岸に、当時の姿をとどめている。

■アクセス
JR長崎駅から長崎バス[野母半島方面(戸町経由)乗車]15分、小菅町下車、徒歩5分
■住所:長崎県長崎市小菅町5
■TEL:095-828-4134(三菱重工業(株)長崎造船所史料館)
  • 長崎歴史文化博物館所蔵

    長崎歴史文化博物館所蔵

トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover (1838~1911)
イギリスより機材を取り寄せ、造船業の近代化に貢献
スコットランド出身の貿易商人。21歳の時に開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。明治以降は経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。その代表的なもののひとつが1868(明治元)年に竣工した洋式スリップ・ドック「小菅修船場」の建設です。船体曳揚げ用蒸気機関その他すべての施設はグラバーの仲介によってイギリスから輸入されました。
  • 国立国会図書館所蔵

    国立国会図書館所蔵

五代才助(のち友厚)Saisuke Godai (Tomoatsu) (1836~1885)
薩摩藩の近代化のためドック建設に尽力
薩摩藩士。1857(安政4)年、藩命により長崎海軍伝習所にて学びました。以降、1868(明治元)年まで主として長崎に居を構え、その間、グラバーとも親交を重ねました。1862(文久2)年、二度に渡って上海に密航し、薩摩藩のために汽船や武器を購入。1865(慶応元)年には藩命により英国に渡り、紡績機械や武器などを購入しました。帰国後は薩摩藩の近代化政策を推進するため外国貿易、鹿児島紡績所の建設をはじめ、小菅修船場の建設にも関わりました。明治政府成立後は外国官権判事、大阪府判事などを歴任しますが、その後官を辞し、大阪活版所、大阪製銅会社を設立するなど、実業界で活躍しました。
  • 国立国会図書館所蔵

    国立国会図書館所蔵

小松帯刀 Tatewaki Komatsu (1835~1870)
小菅修船場建設に奮闘した維新の十傑
薩摩藩士。1861(文久元)年島津久光の側役となり、藩政改革を補佐。その実力が認められ、藩政の中心人物となります。大久保利通、西郷隆盛らを重用するなど、人材の登用に努める一方、薩長同盟締結や大政奉還にも尽力しました。またイギリスとの関係改善を図り、グラバーと手を組んで、小菅修船場の設立をはじめ、薩摩藩イギリス留学生の派遣や鹿児島紡績所の設立など、多方面で活躍しました。維新後は総裁局顧問、外国官副知事などに任じられますが、1870(明治3)年に大阪で病没しました。
平野富治 Tomiji Hirano (1846~1892)
三菱造船所の基礎を築いたソロバンドックの所長
長崎出身の実業家。3歳で父を失い、平野家の養子となります。苦学の末、本木昌造に見出されて、1861(文久元)年、長崎製鐵所機関手見習となります。本木に汽船航法などを学び、1866(慶応2)年、回天丸を江戸へ回航。その後、土佐藩の機械方、一等機関士を経て、1869(明治2)年、本木のあとを受けて長崎製鐵所所長に就任。翌年には小菅造船所長を兼任し、後の三菱造船所の基礎を築きました。1868(明治4)年、本木に請われて活版事業を引き受け、鋳造活字の製造に成功。1876(明治9)年には我が国最初の近代的民間造船所である石川島平野造船所(石川島播磨重工業の前身)を設立しました。