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- 浦上・平和公園
原爆犠牲者の冥福と平和を願う祈りの空間
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。 「平和祈念像」 長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は&…
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恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士の病室兼書斎
如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。 原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたこの建物を博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付け2人の子ども達と共に暮らしました。 北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置き、寝たきりの博士は執筆にはげまれました…
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悲しみの原点、グラウンド・ゼロ
昭和20年(1945)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968)に建立された黒御影石の碑が立てられており、園内には被爆当時の地層も残されていますが、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガ、3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没しています。 原爆の…
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原爆の多大な被害を受けた小学校
爆心地から北へ約600mの場所にある山里小学校は、原爆により鉄筋コンクリート3階建て校舎北側の1、2階を残して倒壊しました。 当日作業中だった教師28名、児童1581人のうち約1300人が亡くなるなど多大な被害を受けました。 終戦以降、平和教育が継続されて定着しており、校内や浦上地区に点在する被爆遺構などについて学年毎にテーマ、スポットを定め、“事実…
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原爆の脅威を伝える一本柱鳥居
日本二十六聖人殉教地へと続く浦上街道沿いにある明治元年(1868)創立の山王神社は、爆心地から南東約900mの場所の高台にあり、原爆の被害を受けました。社殿は跡形もなく崩れましたが、昭和25年(1950)に再建され今に至ります。 山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がありますがもともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけが片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのです。左片…
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原子爆弾に耐え、奇跡の復活をとげたクスノキ
様々な樹木に囲まれた山王神社の境内入口に根をおろしている大クス。 1945年8月9日11時2分に、長崎市上空で炸裂した原子爆弾により、幹に亀裂が入り、枝葉も吹き飛ばされ、熱線で焼かれ、一時は枯死寸前となりました。 しかし、次第に樹勢を盛り返し復活を遂げ、現在では長崎市の天然記念物に指定されています。 長崎市出身のアーティスト福山雅治さんの楽曲「クスノキ」のモデルにもなっています。
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被爆校舎を保存、利用した平和祈念館
原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、1400余名の児童と職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた長崎市立城山小学校。被爆以前の校舎は白亜の偉容を誇る、それは美しい3階建ての校舎だったのだという。 しかし、戦争がはじまり度々空襲に見舞われるようになると、校舎には迷彩色が施され校舎の一部は三菱兵器製作所の給与事務に使用された 校長室で会議中に被爆し奇跡的に助かった当時の荒川秀男教頭先生…
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原爆の脅威と平和の尊さを体感できる施設
昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。 広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し約15万人の人々が命を落としました。 この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史、そして核兵器のない平和希求までがストーリーを持たせわかりやすく展示されています。 被爆直後と現在の長崎の風景写…
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永井隆博士の精神を宿す記念館
医学博士であり敬虔なカトリック信徒だった永井隆博士は、長年取り組んでいた放射線の障害を受け、被爆前にすでに白血病を患い余命3年の宣告を受けていました。原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と発表を続けた博士。寝たきりとなってからは如己堂(にょこどう)と名付けた2畳一間の部屋に子ども達と住みそこで原爆、人間、愛、平和に関する多数の著書を執筆し、余…
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原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するための施設として、被爆地である長崎に設置するものです。
原子爆弾による犠牲者の追悼し、恒久の平和を祈念する施設です。 館内では死没者を追悼するほか、遺影や手記をはじめとした平和に関する様々な情報を閲覧できます。
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- その他長崎市内
二度と核兵器による惨禍が繰り返されないことを願って
原爆救援列車とは、1945年(昭和20年)8月9日の原子爆弾投下直後、現在のJR長与駅を出発した計4本の列車です。 運輸省門司鉄道管理局長崎管理部により運行計画が立てられ、正午過ぎに最初の救援列車が出発しました。 救援列車は、爆心地から1.4kmほど離れた、道ノ尾駅と浦上駅の中間にある昭圓寺(しょうえんじ)付近でこれ以上進むことが難しくなり、そこで負傷者を収容し、諫早へと向かいました。 …