如己堂は永井隆博士の病室兼書斎。原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てた
この建物を、博士は“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付け
2人の子ども達と共に暮らした。
北側の壁に香台、本棚を取り付け、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置き、寝たきりの博士は
執筆にはげまれたという。永井隆博士が記した著書のテーマは原爆、人間、愛、平和……
いずれも博士自らの体験をもって後世に伝えておきたいと願ったメッセージ性に富んだ
作品ばかりだ。なかでも『長崎の鐘』『この子を残して』は名高い。
現在この如己堂は、多くの人に受け継がれている永井隆博士の恒久平和と隣人愛の精神の
象徴となっている。
もっと詳しく知ろう! 永井隆記念館
恒久平和と隣人愛を発信し続けた場所

永井隆博士が生活した如己堂
永井隆博士の生きざまとメッセージ
如己堂横の記念館では様々な展示を通して永井隆博士の生涯、精神、
そして平和への祈りを知ることができる。緑夫人の亡骸の側にあったロザリオ。
著書『ロザリオの鎖』に記された、この原爆で焼けただれた緑夫人の十字架のついた
サンゴのロザリオは、原爆の脅威と共に、博士と緑夫人との絆を示している。
また、映像鑑賞コーナーでは『永井隆博士の生涯』『原爆と医療活動』『医学と信仰』
『平和を願って』の4種類、それぞれ約5分間の映像が鑑賞できる。 これらの映像を
目にすることによって、博士が体験してきたことをより身近に感じ、よりダイレクトに
メッセージを受け取ることができるだろう。
寂しくてもつらくても強く生きていって欲しい……重症の床に伏す薄命の父が愛惜の
情を込めて書き残した遺訓書『この子を残して』など、記念館内にはこれらの初版本をはじめ、
外国語に翻訳された著書も展示されている。

緑夫人の遺品、ロザリオ
如己堂は潜伏キリシタン時代の張方屋敷跡
如己堂がある場所は、潜伏キリシタン時代の指導者である張方(ちょうかた)屋敷跡。
慶長18年(1614)、徳川家康が禁教令を発布し宣教師は国外追放、教会はすべて破壊された。
当時長崎地方には約5万人のキリスト教徒がいたが、以後約250年間、武装抵抗することなく
表面では仏教徒を装い潜伏し続けた。
帳方とは司祭の助力なしに教義、儀式の維持と伝承につとめる互助組織で、浦上では
サンタ・クララ教会を世話していた孫右衛門によって組織された総頭(そうがしら/帳方)、
触頭(ふれがしら/水方〜洗礼を授ける役)、聞役(ききやく〜水方を補佐し日繰りなどを
各戸に伝える役)の三役体制の最高責任者・総頭のこと。帳方は日繰り(教会暦)を所持し、
祝日や教会行事の日を繰り出し、祈りや教義を伝承していた。
初代帳方は孫右衛門がなり、これを代々子孫が受け継ぎ、安政3年(1856)、浦上三番崩れで
ミギル吉蔵が検挙されるまで7代続いた。永井隆博士の妻、緑夫人はミギル吉蔵の曾孫に
あたるのだそうだ。
