森山栄之助の足跡をたどる

ドラマ中で、小池徹平さんが演じた森山栄之助は、実在した幕末に活躍した長崎のオランダ通詞です。英語にもすぐれ、蘭・英二か国語を用いる幕末外交の中心通訳官として知られます。
森山は文政3年(1820)6月1日に長崎のオランダ通詞・森山家に生まれた。はじめ栄之助、34歳頃に多吉郎と改める。諱は憲直、茶山(または子錦)と号しました。
嘉永元年(1848)から翌年にかけ、同僚のオランダ通詞13人と共に、米国人ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)に英語を学ぶ。これは英語を母語とする者による英語教育の始めです。
マクドナルドは森山について、「彼にはまた、英語を習得したいという強い願望があり、豊かな才能を示した。(中略)彼は研究熱心な学者の風采で、洗練された紳士であった。彼はわたしの愛弟子であった」と回想しています。
また森山は、嘉永3年(1850)から幕命により、「エゲレス語辞書和解」の編さんにも従事しました(その後中断)。
嘉永6年(1853)以降、森山の活躍が続きます。
同年に長崎に渡来したロシア使節プチャーチンとの外交交渉において、通訳として重要な役割を果たしました。その時の森山について、使節の秘書官は、「英語はごくわずかしか話さないが、聴く方はほとんどわかる」「栄之助はヨーロッパ人に似ていて、その顔つきには分別と教養がにじみでている」と述べています。
その翌年・安政元年(1854)、ペリーが再来日すると森山は主席通訳として、交渉において中心的な存在となりました。「ほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、お蔭でわれわれの交渉は大助かりだ」とアメリカ側の記録にはあります。
そして、その後来日したアメリカ総領事ハリスとの応接通訳を行ったほか、条約文の翻訳にもあたりました。
こうした功績が認められ、安政元年(1854)10月に長崎の地役人(町人)から幕臣(武士)に取り立てられ、慶応4年(1868)には兵庫奉行所支配組頭(副奉行)をつとめるなど、破格の出世をとげました。
森山はロシア・アメリカだけではなく、プロシア・イギリス等諸国との外交交渉・条約締結にも参加しており、その仕事ぶりは、「彼はほとんど日本語と同じくらいに、ぞうさなくオランダ語を書いたり、話したりした」「滑稽な態度を装いながら、その陰に限りない老練で、機敏な常識を秘めていた。彼はまさにタレイラン流の外交官」と評されています。
明治4年(1871)3月15日、52歳(数え年)で死去した。墓は東京・巣鴨の本妙寺にあり、長崎の森山家墓所(本蓮寺)にも墓が建てられたが現在は整理され墓石のみ残ります。
森山が幕末の外交において残した業績について、その門人である福地源一郎(櫻痴)は「外交の通弁を任じ幕府外交の事についてはもっとも勤労を尽くしたる人なり」と述べ、その業績を高く評価しています。
シーボルト記念館 「特集展示 オランダ通詞森山栄之助」
NHK土曜ドラマ「わげもん~長崎通訳異聞~」がNHK・BSで再放送されることとなり、ドラマに関する展覧会が市立図書館で開催されることに合わせて、シーボルト記念館で所蔵する森山栄之助関連資料を展示し、オランダ通詞の仕事ぶりを紹介します。

1.展示期間 令和4年4月19日(火)~同年5月29日(日)
2.内  容 特集展示 オランダ通詞森山栄之助
3.展示場所 「日本研究と医学教育-鳴滝塾」コーナー
~森山栄之助の足跡をたどる~
大悲庵跡
大悲庵跡
大悲庵は崇福寺の末庵で、元禄6年(1693)寺内に創建され、宝永2年(1705)西山村(長崎村西山郷)に移転し、明治10年(1877)廃庵となりました。
ラナルド・マクドナルド(1824~1899)は、未知の国・日本への憧れをいだき、日本人に英語を教え日米両国の架け橋となる志をもっていた。嘉永元年(1849)漂流人を装って入国し、同年9月に長崎に連行・幽閉され、翌年3月まで大悲庵で森山栄之助ら14人の阿蘭陀通詞に英語を教授した。日本初の英語母語話者(ネイティブ・スピーカー)の英語教師とされます。
 
マクドナルド・森山栄之助顕彰之碑
マクドナルド・森山栄之助顕彰之碑
大悲庵跡近くに「マクドナルド顕彰之碑」があります。これは、日本人に初めて英会話を教授したマクドナルドの功績顕彰を目的として、平成6年(1994)、長崎南ロータリークラブにより建立されたものです。また、平成26年(2004)には、その隣に同クラブにより「森山栄之助(多吉郎)顕彰之碑」も建てられています。
 
シーボルト記念館
シーボルト記念館で所蔵する森山栄之助関連資料を展示し、オランダ通詞の仕事ぶりを紹介する特別展示を行っています。

~特集展示 オランダ通詞森山栄之助~
期間:令和4年4月19日(火)~同年5月29日(日)
場所:「日本研究と医学教育-鳴滝塾」コーナー
本連寺(森山家墓所跡)
本連寺(森山家墓所跡)
森山家は初代森山太吉郎が元禄8年(1695)に稽古通詞に任命されて以来、幕末の森山幸之助まで九代にわたり通詞をつとめました。本蓮寺は森山家の菩提寺であり、かつて代々の当主、一族及び栄之助等14基の墓がありました。現在は改葬されて、墓石のみ寄せられています。(現在、東京・巣鴨の本妙寺に森山家墓所現存)。栄之助の墓石には、正面に「森山憲直墓」と彫られています。)

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