居留地の外国人が、日本に持ち込んだものは?

近代的インフラから嗜好品まで、海外のスタイルが入ってきた!
長崎居留地にやってきた外国人の多くは、さまざまな面で日本の近代化に大きく貢献しました。現在では身近に感じる生活スタイルや文化、施設などの中にも、この時代に居留地を通じて入ってきたものがたくさんあります。例えば、洋式ホテル、ボウリングやゴルフなどのスポーツ、遠くの人ともつながる電話や電信などの通信技術、さわやかな清涼飲料水など。ここでは、長崎に持ち込まれ、日本国内に広がった文化をいくつか紹介します。
人が集い、活気あふれる町づくりに貢献
居留地が栄え活気を呈してくると、長崎の居留外国人たちは数々の施設をつくり、互いに親交を深めて楽しみました。ここでは、そんな彼らがつくった西洋文化を感じる施設を紹介します。
社交施設・社交場
社交施設・社交場
いつの時代でも、人が集えばそこに楽しみを求めて、新たな文化活動が行われていきます。居留地に住む外国人は、社交と休養のための施設をつくり、事業の情報交換をしたり、互いの親交を深めたりしました。その中には、居留地のイギリス人男性が集う「ナガサキ・クラブ」などがありました。のちには英国商人・グラバーの息子の倉場富三郎や、ホーム・リンガー商会を経営したフレデリック・リンガーが集っていたことが知られ、昭和初期まで続いたそうです。
その他にも、長崎居留地には会議や講演会、外国軍艦楽隊のコンサート、ダンスパーティなどに利用された大浦31番地のパブリック・ホールや、毎年春にボートレースを開催した長崎ローウイング・アンド・アスレチック・クラブなどがありました。
 
西洋式ホテル
西洋式ホテル
長崎で最初の西洋式ホテルは、文久2年(1862)に大浦25番地で開業した「コマーシャル・ハウス」というホテルです。その後も港に近い大浦には「オリエンタル・ホテル」「ベルビュー・ホテル」など国際色豊かなホテルが建てられました。
長崎に海外から大型定期旅客船が入港するようになる明治20年代から30年代にかけては、「ジャパン・ホテル」「ホテル・デ・フランス」「ナガサキ・ホテル」など、豪華なホテルが続々と建設されました。
 
鉄道
鉄道
日本で初めて蒸気機関車が走ったのは、慶応元年(1865)の大浦海岸通りです。英国商人・グラバーが600メートルほどのレールを敷き、イギリス製の蒸気機関車アイアン・デューク号を試走させました。機関車は、グラバーが上海の展示会で買い取り、日本に取り寄せたもので、2両の客車に人を乗せて、真っ黒な煙を上げて走りました。
 
情報の入手、伝達手段は早い段階から確保
居留地に住んでいた外国人の多くは、貿易などの事業に携わっていたため、ビジネスに欠かせない情報の入手や伝達にはとりわけ敏感でした。新聞は居留地ができてすぐに発行され、電話についても明治初期には開通していました。
英字新聞
英字新聞
文久元年(1861)、日本初の英字新聞として「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」が創刊しました。発行は週2回、内容は主に長崎港の出入国船のリストや広告のほか、海外の情報や長崎のローカル情報が掲載されていました。
明治3年(1870)には、週刊英字新聞「ナガサキ・エキスプレス」が創刊され、同紙は明治30年(1897)にホーム・リンガー商会が買収して名を「ナガサキ・プレス」と改め、日刊紙となって昭和4年(1929)の廃刊まで発行されました。
 
国際通信
明治4年(1871)、デンマークの大北電信会社が、長崎〜上海間と長崎〜ウラジオストック間に海底ケーブルを設置し、大浦にあったベルビュー・ホテルの一室を借りて、日本初の国際電信事業を開始しました。南山手には「大北部電信會社」と刻まれた石標柱が今も残されており、旧居留地の南に位置する小ヶ倉には、海底電線中継所として建てられた陸揚庫が現存し、当時の通信・機材なども長崎歴史文化博物館で展示されています。
 
娯楽としてのスポーツは長崎からはじまった!?
健康のため、また日頃のストレスを発散するために、スポーツを楽しむという文化は、西洋からもたらされた発想です。
ボウリング
ボウリング
文久元年(1861)6月、創刊されたばかりの英字新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に、ボウリング場オープンの広告が掲載され、居留地に住む外国人のためのスポーツ娯楽施設として、日本で最初のボウリング場が開かれました。
 
ヨット
ヨット
続く文久元年(1861)7月には、英字新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に、長崎居留地で英国商人、ウィリアム・オルトが発注したヨットが建造されたという記事が掲載されました。これが日本で最初に造られたヨットだとされています。
 
外国人居留者や日本人も一緒に学びました
明治6年(1873)にキリスト教の禁教令が撤廃され、それとともに、宣教師たちが教会や自宅に日本人の生徒を集めて授業を行うようになり、やがて神学校が建てられました。
明治8年(1875)にアンドレ神学校(出島聖公会神学校)が設立されたのを皮切りに、活水女学校、カブリー英和学校(鎮西学院)、スチイル記念学校(東山学院)、聖心女学校、海星学校など、明治20年代までに東山手の丘にはミッション・スクールや宣教師の住宅が建ち並ぶようになりました。
互角教育はもちろんですが、ミッション・スクールでは、西洋音楽の普及にも大きな役割を果たしており、活水女学校では、明治20年(1887)に音楽科を設け、本格的な西洋音楽教育を行っています。
  • グラバー園内に移築された旧自由亭

    グラバー園内に移築された旧自由亭

異国の味に舌鼓
江戸時代は、窓口であった出島を通じて日本にもポルトガルやオランダの食文化が入ってきていましたが、開国後はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、中国など、さまざまな国籍の人々が居留地に住みはじめたこともあり、より多彩な食文化がもたらされました。また、日本人が営む西洋料理店も現れました。
庶民にも愛されたハイカラな味
明治初期に長崎にやってきた、英国人ロバート・ネール・ウォーカーが、明治37年(1904)に日本初の清涼飲料水の製造販売会社を設立しました。
「バンザイサイダー」「バンザイレモネード」などと名付けられ、明治時代には洋酒と並んで、炭酸水と砂糖と香料で味付けされたハイカラな飲み物として当時の人々にも人気が高かったといわれています。