居留地にはどんな建物が建っていたの?

瓦屋根に煙突!? そんな異国情緒あふれる、洋風建造物が建ち並ぶ
幕末から明治期の長崎居留地には、数多くの洋風建造物が建ち並んでいました。港に面した海岸通りには商社、銀行、領事館、ホテルなど、裏通りには製茶所、製パン所、理容院、洋装店などが軒を連ねて、さながら西洋の港町を連想させる賑やかな町並みになりました。下り松(現、松が枝町)の海岸地には造船所や入港中の船員が集うバーなどがあり、梅香崎には税関、郵便局、電信局もありました。海を見下ろす高台の東山手の丘には、はじめは教会や領事館が、のちに学校や住宅などが建てられ、学園の丘とも呼ばれる景観になりました。大浦川をはさんだ向かいの南山手の丘には、ゴシック様式の大浦天主堂が建ち、眺望のよい場所には住宅が建ち並んでいました。
居留地の建物は、木造のほか、石造やレンガ造の洋風建築などがあり、それまで国内では見られなかった、居留地ならではの独特な街並みが広がりました。「伝統的建造物群保存地区」として保護されている東山手、南山手地区には、今もそうした洋風建築などの歴史的建造物や、レンガ塀、石畳、古い樹木など、外国人居留地の面影をしのばせる遺産が数多く残り、長崎の人気観光エリアになっています。ここでは、今に遺る旧居留地の主な建物の中から、「教会」「住宅」「領事館」「銀行」「税関」など、代表的なものを紹介します。
”信徒発見”の舞台となった大浦天主堂
江戸時代には禁教令により教会は全て破壊されていましたが、安政5年(1858)に結ばれた五カ国との修好通商条約の締結によって、居留地には日本に滞在する外国人のための教会建設が可能になりました。国宝に指定されている大浦天主堂の敷地内にあるさまざまな建造物には、開国後の長崎におけるキリスト教の歴史が宿っています。
旧羅典神学校
キリスト教禁教の高札が撤去され、信仰が黙認されたことから、明治8年(1875)に日本人の司祭を育成する目的で大浦天主堂の隣に建てられた神学校です。設計は、フランスより来崎したド・ロ神父によるもので、木造の骨組みにレンガを積んで壁にしているところが特徴的です。現在は資料館として活用されています。
旧長崎大司教館
大浦天主堂境内に建てられていた司教館を大正4年(1915)に建て替えたものです。斜面の土地を巧みに利用した一部地下1階、地上3階建のレンガ造で、旧羅典神学校と並び、ド・ロ神父が手掛けた建物です。
大浦天主堂境内
大浦天主堂境内は、元治2年(1865)に浦上の潜伏キリシタンがプチジャン神父に自らの信仰を告白した「信徒発見」の舞台で、禁教下においても継続されてきた信仰と、開国によってもたらされたキリスト教信仰をつなぐ歴史的に重要な場所です。また、パリ外国宣教会の親父たちの活動拠点であり、同時に日本人聖職者を養成する神学校などが設置された、日本における再布教の拠点となった場所です。
祈念坂

祈念坂

教会の鐘の音を聴きながら、長崎港を望む

祈念坂は、長崎港を望む港町らしい景観が見られる大浦天主堂脇の石畳の坂道です。この坂を下ると大浦天主堂、大浦諏訪神社、妙行寺が隣接する、日本文化と西洋文化が織りなす長崎ならではの空間へ。

西洋の建築様式と日本の建築技術が融合した和洋折衷の美しさ
居留地時代の洋風住宅の多くは、西洋の建築様式に基づいて、、日本の技術者が従来の建築技術を用いながら、試行錯誤して建てた和洋折衷の融合が見られます。さらに、そこに住んだ人々が紡いだ物語を重ね合わせれば、居留地時代の面影がぐっと身近に感じられるでしょう。
旧グラバー住宅
長崎の開港と同時に来日したスコットランド出身の商人、トーマス・ブレーク・グラバーが文久3年(1863)に建てた日本に現存する最古の木造洋風建築です。開放的で広いベランダを持つ瀟洒な洋館でありながら、屋根瓦となっており、日本の伝統的な建築技術と西洋の様式が融合している建物です。グラバーが居住やビジネス、文化交流の場として使用した建物で、国の重要文化財に指定されています。
グラバーは幕末の長崎において、薩摩藩や長州藩をはじめとする倒幕派の若い志士たちと交流し、明治維新の実現をビジネスの側面から支援した人物です。明治維新後も日本にとどまり、事業家として日本の近代化に貢献しました。
旧リンガー住宅
貿易をはじめ、製茶業、漁業、保険業、海運業などを幅広く手がけた英国商人、フレデリック・リンガーの住まい。三方をベランダに囲まれたバンガロー形式の木骨石造の洋館です。場所は建設当初のまま、現在はグラバー園に保存、展示されています。
屋敷の主・リンガーは、明治元年(1868)にホーム・リンガー商会を設立。日刊の英字新聞「ナガサキ・プレス」を発行したり、ガス会社を経営したほか、大浦海岸通りに客室50、125人を収容できるダイニングルームを備えたレンガ造3階建の「ナガサキ・ホテル」を建造するなど、長崎の経済と商社の近代化に大きな影響を与えました。
旧オルト住宅
開国とともに長崎に来た英国商人、ウィリアム・オルトの住まい。ベランダには高い天井を支えるタスカン様式の石造円柱が並び、家の前には噴水が配されています。玄関脇に茂る日本最古、最大級といわれる木香バラが印象的な邸宅で、主屋の背後には煉瓦造の附属屋と倉庫、うしろの崖面に造られた貯蔵庫も残されています。
オルトは長崎の商人、大浦慶と提携して製茶とその輸出を行い、巨額の利益を得ました。また長崎居留地が開設された初期のころの外国人のリーダー的存在で、居留地の自治と運営にも大きく貢献しています。
東山手洋風住宅群(7棟)
明治20年代後半に建てられた7棟の住宅群です。全般的に造りや意匠などに似ている点があることから、社宅や賃貸住宅として計画的に建設されたものではないかといわれています。7棟の意匠はそれぞれ少しづつ異なっており、中国風の欄間飾りや屋根瓦やマントルピースなど、和洋中の多様さが見られます。
現在は居留地時代から現代までの町並みの様子を写真やビデオで解説する東山手地区町並み保存センター、古写真・埋蔵資料館、国際交流の場・ワールドフーズレストラン東山手「地球館」として活用されています。
オランダ坂

オランダ坂

坂の町・長崎を代表する坂道の一つ

東山手洋風住宅群7棟と、日本の女子教育のさきがけとなった活水学院の周辺には、異国情緒あふれる町・長崎を代表する石畳の道・オランダ坂があります。
開国前は出島にオランダ人がいたため、長崎では開国後も東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼んでいたことから、オランダさんが通る坂という意味で「オランダ坂」と呼ばれているとか。

日本との外交事務が行われた国際的な場所
安政5年(1858)に五カ国との修好通商条約が結ばれると、各国は長崎に外交事務を行う領事館を建設しました。日本と海外との外交史を物語る貴重な存在で、なかには昭和初期まで外交事務を行った領事館もあります。
東山手十二番館
明治元年(1868)にロシア領事館として建てられた東山手で現存する中では最古の洋風木造建築です。三面に広く開放的なベランダを設け、内部も天井が高く、どこか住宅とは違う威風堂々さを感じます。建物は、その後、アメリカ領事館としても使用され、また活水女学校で働く宣教師の住宅にもなりました。広い居室にはタイプライターなどが置かれ、外交事務が行われた往時の姿を想像させてくれます。現在は、旧居留地私学歴史資料館として活用されています。
旧長崎英国領事館
英国領事館は開国後、まだ居留地が造成される前から妙行寺に仮住まいをして外交事務を行っていました。その後、東山手の丘を経て、現在の大浦六番地に移りました。現在残る建物は、明治41年(1908)に新築した煉瓦造の領事館で、本館のほか附属屋や職員住宅など、領事館施設が敷地内にそのまま保存されています。お隣には英国人フレデリック・リンガーが設立したホーム・リンガー商会の建物がありました。
(現在、2022年度まで保存修理を行っています。)
旧香港上海銀行長崎支店
明治37年(1904)、大浦海岸通りに竣工した旧香港上海銀行長崎支店は、石造の3階建てで、長崎市内に現存する洋館として最大級の規模を持つ銀行建築です。この銀行は、当時、神戸より西側では唯一の外国銀行で、在留外国人と、特に貿易商を主な取引先とした特殊為替銀行でした。現在も1階にはカウンターなどが残され、旧香港上海銀行長崎支店記念館として公開されています。
旧長崎税関下り松派出所
明治31年(1898)に建設された長崎税関の派出所で、貨物の検査が行われていました。海に面したレンガ造の建物正面に見られる三角破風と、アーチ状に造られた出入口が異国情緒を漂わせています。現在は、税関にまつわる資料を展示するとともに、長崎市べっ甲工芸館として活用されています。