居留地にやってきた外国人はどんな人たち?

貿易商や技術者、宣教師、船員など、様々な人たち
来日し、長崎居留地を拠点とした外国人は、当時の名簿によると、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、中国からの人々が比較的多く、このほかオーストリアやドイツ、デンマークなどの国々の人々も暮らしていました。彼らは、貿易商人や船員、炭鉱や造船、建築、土木などの技術者、キリスト教の宣教師、そしてこれらの人々を保護する領事など、来日した目的や職種も様々でした。彼らの中には、長らく日本で活動し大きな功績を残した人や、長崎で永遠の眠りについた人もいます。長崎市内には、この地で活躍した人々の足跡を示す、たくさんの文化財が残されています。ここでは、長崎居留地を拠点とした主な人々やエピソード、関連する文化財などを紹介します。
  • 旧グラバー住宅

    旧グラバー住宅

  • 新坂本国際墓地にあるトーマス・ブレーク・グラバーと息子の倉場富三郎の墓

    新坂本国際墓地にあるトーマス・ブレーク・グラバーと息子の倉場富三郎の墓

開国後の日本にビジネスチャンスを求めてやってきた冒険商人
トーマス・ブレイク・グラバー(1838~1911)
グラバーは、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し、生糸や茶の輸出や、武器などの輸入を扱っていました。その一方で、佐賀藩との共同事業で高島炭鉱の開発を行い、北渓井坑などを開坑し、その後も経営に携わりました。また、薩摩藩とともに、長崎へ入港する船舶の修理のために、英国から機械を輸入し、小菅に修船場を建設するなど、産業分野での日本の近代化に大きく貢献しました。1911年に死去し、新坂本国際墓地に妻ツルと共に眠っています。隣りには、トロール漁業の導入などに尽力した息子の倉場富三郎とその妻の墓碑もあります。
[関連するスポット(文化財)]
旧グラバー住宅グラバー家墓地
  • 現在はグラバー園内に移築されている旧ウォーカー住宅

    現在はグラバー園内に移築されている旧ウォーカー住宅

船長としても活躍し日本の海運業に大きく貢献
ウィルソン・ウォーカー(1845~1914)ロバート・ネール・ウォーカー(1851~1941)
ウィルソンは1868年に来日し、グラバー商会、ホーム・リンガー商会で船長を務めたのち、1875年には、日本初の国際定期航路である上海航路の船長を務めました。その後日本郵船会社に勤務しました。また、南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルを経営しました。現在の南山手町並み保存センター(伝統的建造物南山手8番館)は、ウィルソンが明治中期に南山手12番地に建設した建物です。
弟のロバートは、1874年に来日し、日本政府より甲種船長の免許を受けたのち、三菱の系列会社や日本郵船に勤務、日本の海運業に大きく貢献しました。1898年にはR. N. ウォーカー商会を設立し、海運業を中心とした貿易業を行い、1904年には、バンザイサイダーなどで知られる清涼飲料工場を開業しました。グラバー園内に移築されている伝統的建造物旧ウォーカー住宅は、ロバートの次男ロバート・ウォーカー・ジュニア(1882~1958)が住んだ建物です。
  • 旧長崎英国領事館 (初期のころは南山手で領事事務を行い、のちに現在地の大浦へ移転。)

    旧長崎英国領事館 (初期のころは南山手で領事事務を行い、のちに現在地の大浦へ移転。)

長崎で活動する自分の国の人々を保護し支えるために尽力
ジョージ・モリソン(1831~1893)
モリソンは、1858年の日英修好通商条約締結後、初代の長崎領事に任命された人物です。健康上の理由で長崎到着が遅れたため、その間はクリストファー・ホジソンが領事代行を務めており、1859年の長崎到着後、領事として着任しました。約2年間の在職期間中に、長崎在住の英国人のために規則を制定し、幕府側と、貿易条件や外国人居留地の整備・生活等に関する交渉を行いました。また、貿易港としての長崎の長所や短所について述べており、安全で便利な港であり、中国との貿易に最適な位置にあること、石炭の供給も豊富であること、近い将来において横浜・神戸に追い越されるだろうと予想しています。
[関連するスポット(文化財)]
旧長崎英国領事館(2022年度まで保存修理中)
  • 旧羅典神学校

    旧羅典神学校

  • 旧長崎大司教館

    旧長崎大司教館

  • 出津教会堂

    出津教会堂

  • 大野教会堂

    大野教会堂

  • ド・ロ神父大平作業所跡

    ド・ロ神父大平作業所跡

布教活動、社会福祉活動において、多彩な才能で外海のために尽くした
マルク・マリー・ド・ロ(1840~1914)
フランスノルマンディー地方のヴォスロール村の貴族の家に生まれたド・ロ神父は、1868年、大浦天主堂のプティジャン神父の要請により印刷技術を持った宣教師として来日しました。1879年、外海地方に赴任すると、布教活動とともに、地域住民を窮状から救うために、施設の建設や事業に私財を投じました。農業・印刷・医療・土木・建築など幅広い分野に渡って、その技術を外海の人々に教えるなど授産活動を行いました。1914年、長崎で亡くなり、外海の墓地に埋葬されました。
現在、ド・ロ神父が手がけた建物として、大浦天主堂境内に旧羅典神学校や旧長崎大司教館、外海地区に出津教会堂、大野教会堂、旧出津救助院などが残っています。また、キリスト教の教義を伝えるため作成した木版画をはじめ、神父の遺品などが展示されているド・ロ神父記念館が外海地区にあります。
[関連するスポット(文化財)]
旧羅典神学校旧長崎大司教館
  • 旧オルト住宅

    旧オルト住宅

  • 現在、東山手の丘に建つ活水学院

    現在、東山手の丘に建つ活水学院

日本における女子教育の先駆者
エリザベス・ラッセル(1836~1928)
ラッセルは、米国メソジスト監督教会の婦人外国伝道協会に所属し、1879年ギールとともに長崎にやって来ました。そして、その年に東山手16番で学校を開校し、今日の活水学院の始まりとなりました。翌年に南山手の旧オルト住宅に移った後、1882年、現在地の東山手13番地に校舎が完成しました。1898年、校長職を退いたのちも教壇に立ち続け、1919年に82歳でアメリカに帰国するまで、活水学院の発展のために尽力しました。
[関連するスポット(文化財)]
旧オルト住宅
  • 居留地の近隣(現在の川上町)に設けられた大浦国際墓地

    居留地の近隣(現在の川上町)に設けられた大浦国際墓地

  • 坂本国際墓地

    坂本国際墓地

長崎居留地を訪れた外国人の中には、長崎で永遠の眠りについた人もいました。彼らは長崎市内の国際墓地で静かに眠っています。居留地が置かれた後に造られた墓地は、文久元年(1861)に居留地に近いところに造られた大浦国際墓地、明治元年(1868)に開設した坂本国際墓地、さらに明治36年(1903)にはその隣に開設した新坂本国際墓地などがあり、多くの国の人々の墓碑があります。