長崎から、新しいニッポンを夢見る!

  • 風頭公園に佇む龍馬像
龍馬は亀山社中時代に、日本の政局を動かす「薩長同盟」の成立などに貢献しますが、33歳で生涯を閉じる最晩年の年、またもや新生ニッポンの成立には欠かせない大仕事をやってのけます。龍馬が政治的な場面で活躍した土地は京都でしたが、その下地を育み、新しい時代のビジョンを立案した場所が長崎でした。皆さんも龍馬が眺めたであろう長崎の風景を臨みながら、龍馬の夢の続きを一緒に描いてみませんか。
  • グラバー園から望む現在の長崎港。慶応3年9月に長崎港を出港した龍馬は、再び戻ることはなかった

    グラバー園から望む現在の長崎港。慶応3年9月に長崎港を出港した龍馬は、再び戻ることはなかった

「船中八策」で新しいニッポンの枠組みをつくる
慶応3年(1867)は、龍馬にとってとても慌ただしい年でした。土佐藩の後藤象二郎と手を結んだ龍馬は、海援隊を結成。「いろは丸沈没事件」や「イカルス号水夫殺害事件」などに巻き込まれながらも、象二郎らと新しいニッポンはどうあるべきか議論を繰り返していました。この年の6月、龍馬は象二郎とともに土佐藩船・夕顔に乗り長崎港を出発します。この船中で、龍馬は象二郎に「船中八策」と呼ばれる、新しいニッポンをつくるための枠組みについて語りました。その内容は、政権返上、二院制議会、人材登用、不平等条約改正、憲法制定、海軍拡張、御親兵設置、金銀交換比率改定など、龍馬が土佐を出てからおぼろげながら描いてきた、江戸の幕府による政治を覆す、新たな国づくりを目指すものでした。船が大坂に着くと、この「船中八策」は象二郎によってすぐさま京都の土佐藩邸に伝えられ、土佐藩が掲げる藩論となります。その後、倒幕の一大勢力となっていた薩摩藩の一応の同意も得て、10月14日には見事、将軍・徳川慶喜が政権を返上することになります。象二郎からその知らせを聞いた龍馬は、感涙にむせんだといいます。
  • 亀山社中記念館の傍にある「龍馬のブーツ像」。ここからは龍馬も眺めたであろう長崎の町並みが一望できる

    亀山社中記念館の傍にある「龍馬のブーツ像」。ここからは龍馬も眺めたであろう長崎の町並みが一望できる

夢は世界の海援隊
無事、大政奉還の大仕事をやってのけた龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都の近江屋に滞在していましたが、そこに十津川藩士を名乗る男たちの襲撃を受け、再び長崎の地を踏むことなくこの世を去ります。その頃の龍馬は、京都で新政府の人事構想となる「新官制擬定書」の作成に取りかかっていたそうです。その名簿に龍馬自身の名前がなかったことを気にかけた西郷隆盛が、そのことについて尋ねると、龍馬は「役人は性に合わん。わしは世界の海援隊でもやらんかな」と語ったとか。もしも龍馬が暗殺されていなかったら、長崎を拠点に世界の海を渡り、新生ニッポンの発展のため、新たな事業を起こしていたに違いありません。龍馬を大いに刺激したであろう、長崎の異国情緒と自由な気風を、長崎の街並みから感じてみませんか。