龍馬を変えた! 運命の出会い

土佐藩の下級武士として産まれながらも、大胆な発想と行動力で江戸幕府を倒し、明治維新へのきっかけをつくった坂本龍馬。そんな龍馬に夢と希望を与え、刺激した土地が長崎です。龍馬と長崎にはどのようなつながりがあったのか、龍馬が長崎を訪れた時代に時計の針を巻き戻して、龍馬の動向を追ってみましょう。
  • 小説『竜馬がゆく』で、龍馬が長崎を訪れた時の高揚感を描いた司馬遼太郎の文学碑

    小説『竜馬がゆく』で、龍馬が長崎を訪れた時の高揚感を描いた司馬遼太郎の文学碑

  • 龍馬と海舟が逗留した福済寺

    龍馬と海舟が逗留した福済寺

長崎に胸躍らせる龍馬
龍馬がはじめて長崎を訪れたのは、元治元年(1864)のことといわれています。土佐藩の下級武士だった龍馬は、江戸での剣術修行中にペリー提督率いる黒船と遭遇し、外国人を追い払おうとする攘夷思想に傾いていましたが、幕府の海軍奉行で開国派の勝海舟と出会い、その進歩的な考えにすっかり魅了され、海舟の弟子になっていました。龍馬の長崎入りは、その師匠の海舟に伴われてのことでした。海舟は幕府の軍艦・咸臨丸の指揮をとり、太平洋を横断してアメリカを実際に目で見てきた人物です。海舟は世界の広さや、西洋列強の軍事力と攘夷の無謀さを解いて、このニッポンを守るためには、もっと世界に目を向けて積極的な貿易を行い、国力をつけなければいけないということを龍馬に話していたとされ、龍馬はまだ見ぬ西洋の文明や考え方に胸を躍らせていたようです。国内で唯一、海外と貿易を行っていた長崎は、龍馬が憧れる「世界」とつながる場所でした。ついに長崎の地を踏んだ龍馬は、海舟とともに福済寺に逗留します。ここの境内で、龍馬は海舟と相撲を取ったとされていますが、はじめての長崎に高ぶる龍馬の気持ちがうかがい知れるエピソードです。
勝海舟と長崎海軍伝習所

勝海舟と長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所の練習船として使用された日本初の蒸気帆船・観光丸

龍馬が活躍した幕末の時代は、江戸幕府の力が弱まり、日本各地で力を持った雄藩が主導権を握ろうと争っていた時代でした。江戸幕府の官僚であった勝海舟は、そのような時代に外国につけこまれないよう強い海軍を持つことの重要性を訴え、弟子の龍馬とともに幕府や諸藩の垣根を越えた神戸海軍操練所を創設しました。実は、これに先立つこと8年。安政2年(1855)には長崎に海軍伝習所という教育機関がありました。海舟はそこで学び、その時の練習船であった咸臨丸の指揮をとって太平洋横断を果たしています。長崎海軍伝習所にあったもう一艘の練習船は蒸気船・観光丸。観光丸は現在も長崎港で、復元された勇姿を見ることができます。

  • 伊良林にある亀山社中跡は、亀山社中記念館として公開中

    伊良林にある亀山社中跡は、亀山社中記念館として公開中

  • 亀山社中記念館では、ゆかりの品を展示

    亀山社中記念館では、ゆかりの品を展示

  • 龍馬がグラバーから手に入れた銃と同型のポルトガル製ゲーベル銃

    龍馬がグラバーから手に入れた銃と同型のポルトガル製ゲーベル銃

日本初の商社・亀山社中を結成
龍馬が海舟とともに設立に尽力した神戸海軍操練所は、出自を問わずに全国から高い志を持った若者たちが集まっていましたが、各藩からの脱藩者も抱えていたことから、幕府から危険分子の巣窟なのでは?との疑いをかけられ、あえなく解散させられてしまいます。失望する龍馬たちを心配した海舟は、薩摩藩の家老・小松帯刀に龍馬たちの身を託し、慶応元年(1865)、龍馬は薩摩藩船で帯刀や西郷隆盛らとともに薩摩へ向かいました。薩摩では海舟直伝の海軍技術を薩摩藩士に伝えた龍馬は、翌年、再び長崎を訪れると、薩摩藩をスポンサーにして長崎で貿易を行う日本初の商社「亀山社中」を立ち上げます。給料はひと月一律3両2分。1両2分もあれば家族5人が暮らせた時代に、懐具合のいい龍馬たちは、長崎きっての花街・丸山へよくくり出していたようです。
亀山社中、初の大仕事は、薩摩藩の名義で長崎のスコットランド商人・グラバーから武器や軍艦・ユニオン号を購入し、長州藩へ送るということでした。実は当時、幕末の権力争いなどから、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったのですが、亀山社中のこの大仕事のおかげで、のちに幕府を打倒する一大勢力となる「薩長同盟」が結ばれることになります。龍馬は貿易や商売によって、薩摩藩と長州藩を和解させるという離れ業をやってのけたのでした。
長崎の豪商に愛された龍馬

長崎の豪商に愛された龍馬

豪商・小曽根家があった場所には、現在、月琴を奏でる龍馬の妻・お龍の像が佇む

龍馬と仲間たちが長崎において結成した「亀山社中」の給料は、薩摩藩が支払っていましたが、長崎にも龍馬たちの活動を支援する豪商がいました。小曽根乾堂はその一人で、亀山社中は小曽根家の別邸だった場所を借り受け、結成されています。また、小曽根家には龍馬の妻・お龍も滞在し、当時流行っていた月琴を習っていたとか。その他にも、嬉野茶を輸出して富を得た大浦慶も龍馬たちを援助したといわれています。