龍馬とグラバー交遊録
革命前夜、二人の風雲児が長崎で描いた夢は…※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識と人物評価には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。
かといって当時は海外への渡航はご法度、根っからの自由人である龍馬の心身はジレンマで破裂しそうだったかも?そんな時に赴いた長崎はまさに世界の窓。2度目の訪問で、龍馬はグラバー邸に赴き、グラバーと初めての挨拶を交わしますが、自分と大して年の違わない異国の青年が長崎を舞台に大きくビジネスを展開していることに驚きと畏敬の念を覚えました。と同時に長崎が自分の希望を後押ししてくれる地であることを直感。
グラバーも青雲の志に燃える龍馬を見て、この男が日本を変える!と確信したのではないでしょうか。これまでの日本人とは違うスケールの大きさを感じ、グラバーが思ったことは。『おもしろい。一国の運命が変わる画期的な瞬間に立ち会えるかもしれない』…。
安政6年(1859年)に上海経由で長崎に。1861年、グラバー商会設立。龍馬をはじめ長州や薩摩などの藩士たちと交流を深めつつ、日本の革命を予感。幕府や各藩に武器や船舶などを販売し、莫大な利益を得ました。
ある意味で日本の混乱を利用して成功したやり手ともいえますが、時代を見る目があったということでしょう。何よりも危険を省みず未知の大海原を渡ってきた開拓精神、冒険心は特筆もの。その情熱に龍馬も魅了されたのでしょうね。
明治3年(1870年)にグラバー商会は倒産。グラバーは土佐出身の岩崎彌太郎経営の三菱財閥の顧問となり、明治30年に東京に転居しました。
彼の功績は日本にわが国初のものをいくつも伝えたこと。蒸気機関車、小菅修船場(ドック)の建設、近代的な採炭技術を導入した高島炭鉱の経営、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちの麒麟麦酒株式会社)設立に関わるなど日本の近代化に多く貢献しました。享年73歳。朝食のスープを飲み干した直後に倒れ、そのまま逝去。家族とともに長崎の坂本国際墓地に眠っています。

【グラバー園】
南山手の高台に位置し、長崎港をはじめ長崎市内を一望する風光明媚な観光名所。園内には国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガ-住宅・旧オルト住宅ほか市内に点在していた6つの明治期の洋風建築が移築復元されていて、居留地時代の面影が漂う。
(所在地)長崎市南山手町8-1 (問い合わせ)095-822-8223
もちろん、様々な人脈が集うサロンとしての魅力もありましたが、彼から伝えられる世界の情報が一番のおもてなしであり、ご馳走でした。欧米列強のアジア侵略、未知の国々の概要、グラバーの故郷、スコットランドの文化風俗、興味深い食生活、そして銃を筆頭とする精鋭武器の数々。
グラバーも日本の若い藩士たちに世界を見やる手助けをしており、グラバーの援助によって海外渡航を果たした藩士たちの多くがその後日本の政治・経済界を担っていくことになるのです。
船による運送や交易など海運事業を業務とする亀山社中では、働きに応じて給与が支払われるなど近代的な雇用形態が導入されました。
勝海舟を師として船の操縦と航海技術を学んだ龍馬にとって、長崎を拠点とする海運事業は世界へ羽ばたく順風の帆…大きな翼でした。まだ片翼ではあるけれど時代が回天すれば、やがて二つの翼で広い世界へ、未来へ…。
様々な形で龍馬の希望の地となった長崎。龍馬の夢を具現化していく過程を描いた司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の中に、長崎はわしの希望じゃ!という一文がありますが、この一行を抜き出した文学碑が長崎市伊良林に建立されています。龍馬の長崎への思いを共有できるスポットとして人気です。
これを機に、対立関係にあった薩長が慶応2年(1866年)、薩長同盟を結ぶに至ったことは有名ですが、武器調達を頼んだのが龍馬なのか、それとも既に手配してあったグラバーがもちかけたのかは歴史の謎。分かることはあまりにタイムリーで、これをきっかけに討幕への流れが一気に加勢したことです。二人は武器調達を協力し合うことで新たな時代の扉を開けたといえるでしょう。
【亀山社中跡(長崎市亀山社中記念館)】
亀山社中は慶応元年(1865年)、薩摩藩や長崎の豪商、小曾根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同士が設立した結社。日本初の商社といわれている。幕末頃の窯、亀山焼の窯元で働いていた人々の住居後を活用した。老朽化した建物を改修復元して平成21年に「長崎市亀山社中記念館」としてオープン。名誉館長は武田鉄矢氏。
(所在地)長崎市伊良林2-7-24
(問い合わせ)095-823-3400
当時、亀山社中の経営が思わしくなく、金策に行き詰っていた龍馬側の事情と、薩長優位の政局に焦っていた土佐藩側との事情が図らずも一致。龍馬を通して薩長のパイプを確保したい土佐藩は、「土佐商会」からの援助を約束し、亀山社中は「土佐海援隊」として再スタートします。脱藩罪に問われていた龍馬の特赦を働きかけたのも後藤象二郎だったとか。 海援隊の給料は土佐商会から支払われることとなり、このあたりの事情を見る限り、龍馬は大局を見る目はあっても、経営者としては少し甘かった? ただ、この会談がきっかけとなり、一気に大政奉還・明治維新へと回天していくことになるのですから、「清風亭」は日本の歴史を大きく動かした場所ということになりますね。
【清風亭跡】
清風亭会談で後世に名を残す(旧榎津町にあった)料亭。現在は跡地に説明板が設置されている。
(所在地)長崎市万屋町
旧体制から新しい時代への過渡期を、激動の嵐の中を、龍馬自身が疾風のように走り抜けた、そんな感があるドラマティックな人生ですが、その生涯は長崎で最も輝いたような気がします。龍馬自身も姉の乙女にあてた手紙で『長崎へ来ると元気になる』と長崎への思いを綴っていますが、食いしん坊で大食漢でもあった龍馬は長崎の食べ物にも目がなかったようですね。
そして、長崎で得た多くの知己…。そのNO.1がグラバーでした。風頭公園に建つ龍馬の像は遠く長崎港の向こう、大海原を見つめていますが、龍馬が希求していたのは、グラバーのように世界の海を渡って未知へ向かうこと、様々な異国の地で自由に生きること、思うがままに冒険すること…だったような気がします。二人の青年が共有したキーワードは自由と冒険と自己実現。その余りあるエネルギーが日本の近代化の導線になりました。新たな時代はいつも人と人が出会い、結び合って開かれていくのですね。長崎は今日も希望の地です。

【龍馬像】
風頭公園内に佇む龍馬像。長崎市在住の彫刻家・山崎和國氏によって制作され、平成元年5月21日建立された。寺町通り亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道「龍馬通り」は、長崎市の歴史探訪路となっている。
(所在地)長崎市伊良林3丁目
(問い合わせ)095-829-1171
進取の気風に富む龍馬は西洋の食べ物が好きだったようです。甘いものにも目が無くカステラは大好物で亀山社中でも焼いていたとか。ビール会社を手掛けたグラバーとはグルメという点でも一致したのでは?
グラバーはビール以外にも蒸気機関車の導入、炭鉱開発など日本の近代化に貢献。初体験を喜ぶ日本人を見て誰よりも楽しんだのがグラバーだったかもしれません。ちなみに長崎には、ギヤマン、凧、金平糖など長崎から始まる「長崎事始め」がいっぱい。
時代の扉を開ける気概に満ちた龍馬とグラバーは、元々古い慣習や価値観にとらわれず女性を一人の人間として尊重する感性が備わっていたのでしょうね。どちらも夫婦仲は最後までよかったようです。
後年、東京に移り住み、三菱財閥の相談役として活動。1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されました。そんなグラバーを支え続けた妻、ツル。添い遂げた二人のお墓は坂本国際墓地にあり、息子夫婦のお墓も隣に。家族とともにもう一つの故国、日本そして長崎の発展を見守り続けています。
【坂本国際墓地】
大浦国際墓地がいっぱいになったため、明治21年(1888年)に開園した長崎で一番新しい国際墓地。長崎に長く滞在し、異文化の息吹を吹き込んだ外国人や、その家族が眠っている。グラバー夫妻の墓の隣には、息子夫婦が仲むつまじく眠る。
(所在地)長崎市坂本1-2
(問い合わせ)095-822-8888