長崎市内の被爆遺構をめぐる

核兵器の恐ろしさを実感
爆心地に造られた「平和公園」を中心に、長崎市内には原爆の恐ろしさを今に伝える被爆遺構や、被害に遭われた方々の慰霊碑などが点在しています。これらを実際に回ってみることで、戦争の悲惨さや平和の尊さが実感できるでしょう。
  • 原子爆弾落下中心地に建つ碑

    原子爆弾落下中心地に建つ碑

1945年(昭和20)8月9日午前11時2分。長崎市松山町171番地の上空約500メートルで原子爆弾が爆発しました。落下中心地には、そのことを示す原子爆弾落下中心地碑が建てられ、原爆死没者175,743人の名が刻まれています。
  • 爆風によって破壊され、わずかに残った浦上天主堂の側壁

    爆風によって破壊され、わずかに残った浦上天主堂の側壁

爆心地から北東約500メートルの小高い丘にあった浦上天主堂は、東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、原爆の炸裂によってわずかにまわりの壁を残すのみとなりました。この側壁は聖堂の南側の一部で、原爆による被害のすさまじさを伝えています。
  • 被爆後の復興で埋め立てられた当時の地層を見ることができる

    被爆後の復興で埋め立てられた当時の地層を見ることができる

爆心地となった松山町には、当時、約300世帯1,860人余りが暮らしていました。町内にいた者は、偶然防空壕に避難していた9歳の少女を除き、全員即死しました。この地層の中には、破壊された家の瓦、レンガ、溶けたガラス、茶碗、針金などを見ることができます。
  • 原爆炸裂時に、この地にあった長崎刑務所浦上刑務支所の周囲をめぐらしていた壁の一部

    原爆炸裂時に、この地にあった長崎刑務所浦上刑務支所の周囲をめぐらしていた壁の一部

長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地から北に最短約100メートル、最長約350メートルの地点にあった、爆心地に最も近い公共建物です。原爆の炸裂によって、刑務所内にいた職員18名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)の計134名全員が即死しました。
  • 蘇った山王神社の被爆クスノキ

    蘇った山王神社の被爆クスノキ

  • 爆風で吹き飛ばされ、一本柱となった山王神社二の鳥居

    爆風で吹き飛ばされ、一本柱となった山王神社二の鳥居

爆心地の南東約800メートルにあった山王神社は、原爆によって社務所、拝殿、幣殿及び神殿の建造物や宝物等が崩壊、焼失しました。三の鳥居と四の鳥居も倒壊。二の鳥居は強烈な爆風によって、南側の笠木が東に約13度回転し、北側の柱は倒壊。残された南側柱の爆心地方向に面した部分は、熱線により表面が乖離しています。
境内には、樹齢400〜500年以上といわれる2本の大クスの青葉が茂っていましたが、原爆で枝葉が全て吹き飛ばされ、黒焦げになった幹が大きく裂けていました。死んだかに見えた被爆クスノキはその後樹勢を取り戻し、人々の生きる希望となりました。
  • 爆風で傾いた門柱

    爆風で傾いた門柱

爆心地から東へ約600メートルの位置にあった長崎医科大学(現、長崎大学医学部)は、原爆により全焼。倒れた建物の下敷きになったり、火災によって890名あまりが犠牲になりました。台座の上にまっすぐ立っていた門柱も、爆風による圧力で8月9日を境に、9センチ前にずれ、台座との間に16センチの隙間ができました。
  • 多くの人々が亡くなった防空壕跡

    多くの人々が亡くなった防空壕跡

  • 恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士の病室兼書斎「如己堂(にょこどう)」

    恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士の病室兼書斎「如己堂(にょこどう)」

爆心地から北へ約700メートルの位置にあった山里小学校には、大怪我を負ってここへ逃げてきた人々が大勢亡くなった防空壕が残っています。また、原爆で亡くなった「あの子ら」の霊を慰めるとともに、永遠の平和を願うために永井隆博士が建立した「あの子らの碑」などが建っています。
多くの被爆者を救済した永井隆博士

多くの被爆者を救済した永井隆博士

長崎医科大学助教授であった医師・永井隆博士は、自らも被爆しながら献身的に被爆者の救護にあたった人物です。長崎医科大勤務中における放射線被爆による白血病を発症しながらも、「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの小説や、随筆を残し、恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けました。平和祈念像の近くに、永井博士が過ごした2畳一間の木造住居「如己堂(にょこどう)」や、博士の遺品や原稿などを展示する「永井隆記念館」が残されています。

  • 国指定史跡に指定されている長崎原爆遺跡 旧城山国民学校校舎

    国指定史跡に指定されている長崎原爆遺跡 旧城山国民学校校舎

旧城山国民学校は、爆心地から西へ約500メートルの位置にあり、当時、学校にいた教職員31人のうち28人が亡くなりました。また、およそ1,500人の児童のうち1,400人余りが家庭で亡くなったと推定されています。さらに、三菱重工業株式会社長崎兵器製作所の一部が疎開して学校を使用していたため、その所員や動員学徒等の約120人中100人余りの方が亡くなりました。現在、北側校舎の階段部分は、国指定史跡 長崎原爆遺跡 旧城山国民学校校舎として保存、公開されています。