潜伏キリシタンの歴史

心の灯をつないだ遥かなる道
  • 「信徒発見」の舞台となった大浦天主堂
  • 長崎港を臨む大浦天主堂の鐘
2世紀半もの長い禁教の年月を超えて歩んできた日本のキリスト教。布教の拠点であった長崎と天草地方にはその象徴ともいえる教会堂が数多くありますが、長崎とキリシタンの歴史を振り返る時、信じる対象を持った人の思いが実に強いものであることが分かります。遠い地から異国に布教にやってきた者、弾圧されてもなお密かに信仰を子孫へとつないできた者。ここには人間がより人間らしく生きようとする崇高な魂があります。「潜伏」を余儀なくされたキリシタンが心の灯をつないだ遥かな道を辿る旅、ご一緒してみませんか。
  • 聖フランシスコ・ザビエル(神戸市立博物館藏)

    聖フランシスコ・ザビエル(神戸市立博物館藏)

  • 1606年頃に西洋で発行された日本地図では、西日本が大きく描かれていることから、西洋では東日本よりも西日本を重視していたことがうかがい知れる(長崎歴史文化博物館藏)

    1606年頃に西洋で発行された日本地図では、西日本が大きく描かれていることから、西洋では東日本よりも西日本を重視していたことがうかがい知れる(長崎歴史文化博物館藏)

  • ザビエルがやってきた当時のポルトガル船の復元(日本二十六聖人記念館蔵)

    ザビエルがやってきた当時のポルトガル船の復元(日本二十六聖人記念館蔵)

強い絆で結ばれた信仰
大航海時代に貿易の拡大を求めてアジアに進出したポルトガルは、1543年に日本へ到達し鉄砲をもたらしましたが、キリスト教もこの動きに合わせて宣教エリアを広げました。1549年8月15日、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸すると、翌1550年にはポルトガル船が初めて入港した平戸に赴き、領主・松浦隆信から布教を許されました。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりです。ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請によって約20年後の1571年、長崎港が開港しました。
開港とともに、現在の長崎県庁があるあたりを先端とする長い岬の台地に新しい街が誕生しました。島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町,外浦町、分知(文知)町の6つの町が長崎における最初の町でした。当時、集まってきた住民の大半がキリシタンであったといわれています。開港後には、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開き、長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げます。
こうして長崎と天草地方に普及していったキリスト教が、ポルトガルが進出した他のアジア地域や、スペインが進出したアメリカ大陸と異なるのは、これらの地域ではまず植民地が形成され、その過程においてキリスト教も強制的に広まっていったのに対し、日本においては植民地は形成されず、貿易船がもたらす利潤に目を向けた寄港地の地元領主が率先して洗礼を受けて「キリシタン大名」となり、その庇護を受けた宣教師が領内に居住し、領民との間に強い絆で結ばれた信仰組織が作られていったことがあげられます。
  • 26人の殉聖100年を記念し、1962年に西坂公園に建てられた聖フィリッポ教会

    26人の殉聖100年を記念し、1962年に西坂公園に建てられた聖フィリッポ教会

  • 二十六聖人のレリーフ

    二十六聖人のレリーフ

権力者たちが恐れたのは、信徒たちの固い結束
16世紀の終わり頃になると、豊臣秀吉による統一政権が誕生します。秀吉は当初、ポルトガルとの交易を重視していたのでキリスト教に対しても寛大でしたが、主君であった織田信長が一向一揆に悩まされた経緯などを踏まえ、やがて信徒たちの固い結束がいつか国を揺るがす大きな脅威になると考え、1587年に「伴天連追放令」を発します。
10年後の1597年、京都や大阪で宣教師や信者たち26人が捕えられ、長崎まで約1カ月かけて歩かされた上、長崎で処刑されました。この大殉教の引き金となったのが「スペイン船サン・フェリペ号事件」です。1596年にフィリピンからメキシコへ向かっていたサン・フェリペ号が台風に遭い土佐浦戸に漂着。その際の取り調べに当たった奉行に航海士が、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信者を増やし、やがてその国を支配する」と述べたことから(真偽はさだかではない)、報告を受けた秀吉が激怒し、伴天連追放令を理由に宣教師や信者たちを捕えたのでした。
殉教の舞台となった西坂地区

殉教の舞台となった西坂地区

長崎駅から徒歩約3分の西坂公園は、今から約400年前に日本で初めてキリシタンの大殉教が起きた場所です。殉教地には現在、「日本二十六聖人記念館」ならびに「記念聖堂(聖フィリッポ教会)」が建っています。 京都や大阪で捕えられた宣教師や信者26人は、なぜ長崎まで歩かされ、長崎で処刑されたのでしょう。それは、秀吉が出した伴天連追放令に従わず、長崎がキリシタンの町として栄えていたからでした。秀吉は自らの考えと力を知らしめるために長崎を処刑地としたのです。過酷な死の行進の果てに、多くのキリシタンへの見せしめとして。けれど26人は死を恐れることなく、信仰を貫く喜びを主に感謝しつつ昇天したと伝えらます。この事件は、その後の迫害に耐えるキリシタンたちの心の拠りどころとなりました。

  • 美しい天守閣と島原藩やキリシタンの歴史が見学できる島原城(島原市)

    美しい天守閣と島原藩やキリシタンの歴史が見学できる島原城(島原市)

  • 雲仙地獄の拷問によって殉教した切支丹を慰霊する殉教碑(雲仙市)

    雲仙地獄の拷問によって殉教した切支丹を慰霊する殉教碑(雲仙市)

改宗を迫って拷問や踏絵が始まった
豊臣政権に続く徳川政権の初期には、幕府は朱印船や糸割符制度を創設して、外国との貿易を統制管理するようになりました。ポルトガルに加えて、オランダやイギリスも日本との貿易に参入し、その拠点であった長崎は大いに繁栄しました。キリスト教にとっても安定した時期でしたが、やがて幕府のキリシタンへの不信を募らせる事件が起こります。一つは長崎沖に沈んだポルトガル船を巡る長崎奉行とイエズス会との対立。もう一つはキリシタンであった島原領主・有馬晴信と幕臣、本田正純の近臣・岡本大八の賄賂を巡るスキャンダルです。晴信は失脚、その子・直純は日向に転封されましたが、棄教を拒む多くの家臣は島原の地に残ります。
西日本に増え続けるキリシタン。弾圧を加えると信仰が深まり、信徒同士の結束が固くなることに幕府は頭を悩ませます。キリシタンと豊臣の残党が結びつく可能性もありました。1612年、ついに幕府は天領に禁教令を発布。続いて1614年、全国でのキリシタン摘発が始まりました。
禁教の取り締まりは厳しいものでした。幕府は長崎港の監視を強めて宣教師の潜入を阻止しますが、宣教師たちは密入国を繰り返しながら布教活動を続けます。すると摘発と処刑は宣教師だけでなく、彼らをかくまった一般の信徒にも行われるようになりました。長崎、大村、島原などでは多くのキリシタンが命を落としました。
やがて幕府の弾圧は厳しい拷問によって棄教させる「転び」へと変化していきます。1616年、島原領主となった松倉重政は当初キリシタンを黙認していましたが、これを徳川家光から叱責され、迫害へと転じます。拷問に雲仙地獄の熱湯を利用、額に「切支丹」の焼き印をつけるなど、弾圧はエスカレートしていきました。
  • 一揆軍が立て籠もった原城跡

    一揆軍が立て籠もった原城跡

2万人を超えるキリシタンが皆殺しに
禁教政策に加え、島原藩主・松倉勝家による強引な年貢の取り立てや凶作なども重なり、1637年には2万人を超えるキリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」が起こりました。一揆軍は島原半島の原城に立てこもり、4カ月間に及ぶ攻防の末、幕府軍によって老若男女全員が皆殺しになりました。
宗教史上にも例のないこの悲劇はなぜ起きたのでしょう。信徒たちの連帯が一揆軍の団結を強め、幕府はその団結力を恐れていました。キリスト教は国を滅ぼす…その国とは己の権力、己の統治を指します。自らの理想のために私利私欲を捨て殉教も厭わない民と、そのように民を導くキリスト教は、支配体制を固めつつあった徳川幕府にとって排斥しなければならぬ大敵となったのです。
信徒たちの心の拠り所となったヒーロー・天草四郎

信徒たちの心の拠り所となったヒーロー・天草四郎

肥後国南半国のキリシタン大名、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる天草四郎は、カリスマ性があり、聡明で、慈悲深く、容姿端麗。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化され、リーダー的な存在となりました。1637年に勃発した「島原・天草一揆」ではその人気を背景に一揆軍の総大将となり、戦場では十字架を掲げて軍を率いたと伝えられています。(写真:島原市蔵)
  • 多くのキリシタンが潜伏した長崎市外海地区の海

    多くのキリシタンが潜伏した長崎市外海地区の海

密かに継承された潜伏キリシタンの信仰
島原・天草一揆をきっかけに、キリシタン取り締まりは強化され、1639年には幕府がイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、全国的な沿岸警備体制、九州大名による長崎港の警備も厳しくなり、鎖国が完成しました。徹底的な禁教と海禁政策により、もはや宣教師たちの入国はどのような手段でもかなわず、幕末までの2世紀半、キリスト教は日本のどこを見ても存在しない幻の宗教となりました。
長い沈黙の年月…しかし、長崎と天草地方では宣教師に代わる指導者が生まれ、彼らを中心に洗礼や葬儀、教会暦による宗教儀式が密かに行われました。表向きには仏教徒として生活し、内面的に自分たち自身でキリスト教を信仰し継承する「潜伏キリシタン」は、天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰を形作っていったのです。民俗的な習わしと混じりあって独自の宗教に変化したものもありました。こうして、最盛期には37万人を数えた信徒のうち、長崎と天草地方の信徒、2万人から3万人だけが、2世紀半を越えて信仰を継承することができました。
次兵衛岩岩窟マリア像

次兵衛岩岩窟マリア像

潜伏キリシタンの集落では、家屋に仏壇や神棚のほかにキリスト教をルーツとする聖画や聖像が密かに祀られ、独自の信心具や日本語による教理書、教会暦などが伝承されました。墓地も外見は仏式ですが、独特の埋葬方法をとり、殉教したキリシタンの処刑地を聖地として密かに崇敬していました。また、寺社や山岳など、在来宗教の信仰の場を自分たちの信仰の場として共有し、祈りを捧げていました。 外海の山中にある市指定史跡「次兵衛岩洞窟」は、日本人司祭トマス次兵衛が潜伏していた隠れ家として伝えられている場所で、記念碑としてマリア像が建立されています。次兵衛神父は、禁教令による迫害を逃れマニラに渡りましたが、密かに帰国し、厳しい取締りのなかを変装し居場所を変えて各地を宣教した人物です。寛永14年に捕らえられ、長崎で殉教したと伝えられています。

(所在地)長崎市神浦扇山町次兵岩403-4

  • 外海からの潜伏キリシタンが移り住んだ五島列島の久賀島にある旧五輪教会堂

    外海からの潜伏キリシタンが移り住んだ五島列島の久賀島にある旧五輪教会堂

  • 潜伏キリシタン独自の信仰形態「お水取り」が行われた中江ノ島

    潜伏キリシタン独自の信仰形態「お水取り」が行われた中江ノ島

信仰を守れる場所を求めて
18世紀末頃になると、外海の潜伏キリシタンは、人口増加などを理由に開拓移民として五島などの島嶼部へ移住していきました。土地を開墾し、安心して信仰を守れる場所を求めての移住でしたが、実際には移住先の先住者との摩擦などもあり苦労を強いられました。しかし、仏教や神道を宗旨とする住民との間に互助や黙認の関係を築き、密かに固有の信仰の形を継承していきます。
「沈黙」の舞台・長崎市外海地区

「沈黙」の舞台・長崎市外海地区

江戸時代の初期、キリシタン禁制が強まる中、外海、浦上、天草などの信徒たちは仏教徒を装い、リーダーを中心に強い結束力で信仰を守り続けていました。潜伏キリシタンの里である外海地区は遠藤周作の著書「沈黙」の舞台となった場所。遠藤周作ゆかりの品が展示される「遠藤周作文学館」があります。江戸後期には外海地区にいたキリシタンたちが、五島列島に移住し、新たな潜伏キリシタンの集落を作っていきます。
  • 信徒発見の舞台となった大浦天主堂

    信徒発見の舞台となった大浦天主堂

  • 信仰の告白を描いた信徒発見の碑

    信仰の告白を描いた信徒発見の碑

2世紀の時を経て果たした奇跡
幕末、ローマ教皇は日本の開国が近いと見て再び宣教師を送りはじめます。日仏修好条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになり、彼らの日曜礼拝のために横浜に続いて1864年、長崎の南山手にも鋭い尖塔を持つフランス寺—大浦天主堂が建てられました。この時点ではまだ禁教は続いていましたが、堂の正面には漢字で「天主堂」と書かれ、十字架が架けられました。
1カ月後、訪れた一人の女性が神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」とささやきました。禁教令から2世紀もの時を経て再会を果たした宣教師と潜伏キリシタン…これが世にいう奇跡の「信徒発見」です。
お上の目が届かない地での潜伏生活

お上の目が届かない地での潜伏生活

ある女性の一言が「信徒発見」へつながった!

信徒であることを告白した潜伏キリシタンたちが暮らしていたのは長崎市浦上周辺。当時はのどかな農村で、幕府直轄地として役人が目を光らせる中心地から外れていました。ちなみに外海は道が険しく容易にアクセスできない環境だったので、監視の目を逃れられたのでしょう。
神父に話しかけた女性は、実は近所の人に「幕府の罠だ。行くな。」と大浦天主堂訪問を止められた、という説もあります。女性の行動力で時代は動いたのですね!

  • 長崎港を臨む大浦天主堂の鐘

    長崎港を臨む大浦天主堂の鐘

長い冬を耐えて迎えた春のように
明治時代になって新しい政権に移ってもキリシタン弾圧は続き、浦上地区でも3000人以上が流罪になり、過酷な拷問を受けた「浦上崩れ」などが起きましたが、この状況が変化したのが1873年でした。信仰の自由がない国は野蛮な国である、という諸外国からの軽蔑と圧力に対して、政府が禁教令を解除したのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン集落では、それまで続けてきた独自の信仰を続けるもの、カトリックに復帰するもの、また仏教や神道に変わるものが現れました。カトリックに復帰した集落では、潜伏時代の指導者の屋敷跡や、移住先のわずかな平地、海の眺めが良い場所などに、信徒自らの労働奉仕や献金などによって教会堂が建てられました。大浦天主堂には聖堂が建ち、大正時代にはレンガ造りの浦上天主堂が完成。やがて長い長い冬の季節を耐えて春を迎えた花々のように、各地にも次々と教会堂が建てられていきました。
旧羅典神学校

旧羅典神学校

禁教解除を機に日本人神父養成のため設立された旧羅典神学校では、授業はすべてラテン語で行われていました。大浦天主堂横の木骨煉瓦造の建物で、国の重要文化財に指定されています。

(所在地)長崎市南山手町5−3 

(問い合わせ)095-823-2628