潜伏キリシタンの歴史
心の灯をつないだ遥かなる道開港とともに、現在の長崎県庁があるあたりを先端とする長い岬の台地に新しい街が誕生しました。島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町,外浦町、分知(文知)町の6つの町が長崎における最初の町でした。当時、集まってきた住民の大半がキリシタンであったといわれています。開港後には、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開き、長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げます。
こうして長崎と天草地方に普及していったキリスト教が、ポルトガルが進出した他のアジア地域や、スペインが進出したアメリカ大陸と異なるのは、これらの地域ではまず植民地が形成され、その過程においてキリスト教も強制的に広まっていったのに対し、日本においては植民地は形成されず、貿易船がもたらす利潤に目を向けた寄港地の地元領主が率先して洗礼を受けて「キリシタン大名」となり、その庇護を受けた宣教師が領内に居住し、領民との間に強い絆で結ばれた信仰組織が作られていったことがあげられます。
10年後の1597年、京都や大阪で宣教師や信者たち26人が捕えられ、長崎まで約1カ月かけて歩かされた上、長崎で処刑されました。この大殉教の引き金となったのが「スペイン船サン・フェリペ号事件」です。1596年にフィリピンからメキシコへ向かっていたサン・フェリペ号が台風に遭い土佐浦戸に漂着。その際の取り調べに当たった奉行に航海士が、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信者を増やし、やがてその国を支配する」と述べたことから(真偽はさだかではない)、報告を受けた秀吉が激怒し、伴天連追放令を理由に宣教師や信者たちを捕えたのでした。
殉教の舞台となった西坂地区
長崎駅から徒歩約3分の西坂公園は、今から約400年前に日本で初めてキリシタンの大殉教が起きた場所です。殉教地には現在、「日本二十六聖人記念館」ならびに「記念聖堂(聖フィリッポ教会)」が建っています。 京都や大阪で捕えられた宣教師や信者26人は、なぜ長崎まで歩かされ、長崎で処刑されたのでしょう。それは、秀吉が出した伴天連追放令に従わず、長崎がキリシタンの町として栄えていたからでした。秀吉は自らの考えと力を知らしめるために長崎を処刑地としたのです。過酷な死の行進の果てに、多くのキリシタンへの見せしめとして。けれど26人は死を恐れることなく、信仰を貫く喜びを主に感謝しつつ昇天したと伝えらます。この事件は、その後の迫害に耐えるキリシタンたちの心の拠りどころとなりました。
西日本に増え続けるキリシタン。弾圧を加えると信仰が深まり、信徒同士の結束が固くなることに幕府は頭を悩ませます。キリシタンと豊臣の残党が結びつく可能性もありました。1612年、ついに幕府は天領に禁教令を発布。続いて1614年、全国でのキリシタン摘発が始まりました。
禁教の取り締まりは厳しいものでした。幕府は長崎港の監視を強めて宣教師の潜入を阻止しますが、宣教師たちは密入国を繰り返しながら布教活動を続けます。すると摘発と処刑は宣教師だけでなく、彼らをかくまった一般の信徒にも行われるようになりました。長崎、大村、島原などでは多くのキリシタンが命を落としました。
やがて幕府の弾圧は厳しい拷問によって棄教させる「転び」へと変化していきます。1616年、島原領主となった松倉重政は当初キリシタンを黙認していましたが、これを徳川家光から叱責され、迫害へと転じます。拷問に雲仙地獄の熱湯を利用、額に「切支丹」の焼き印をつけるなど、弾圧はエスカレートしていきました。
宗教史上にも例のないこの悲劇はなぜ起きたのでしょう。信徒たちの連帯が一揆軍の団結を強め、幕府はその団結力を恐れていました。キリスト教は国を滅ぼす…その国とは己の権力、己の統治を指します。自らの理想のために私利私欲を捨て殉教も厭わない民と、そのように民を導くキリスト教は、支配体制を固めつつあった徳川幕府にとって排斥しなければならぬ大敵となったのです。

信徒たちの心の拠り所となったヒーロー・天草四郎
長い沈黙の年月…しかし、長崎と天草地方では宣教師に代わる指導者が生まれ、彼らを中心に洗礼や葬儀、教会暦による宗教儀式が密かに行われました。表向きには仏教徒として生活し、内面的に自分たち自身でキリスト教を信仰し継承する「潜伏キリシタン」は、天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰を形作っていったのです。民俗的な習わしと混じりあって独自の宗教に変化したものもありました。こうして、最盛期には37万人を数えた信徒のうち、長崎と天草地方の信徒、2万人から3万人だけが、2世紀半を越えて信仰を継承することができました。

次兵衛岩岩窟マリア像
潜伏キリシタンの集落では、家屋に仏壇や神棚のほかにキリスト教をルーツとする聖画や聖像が密かに祀られ、独自の信心具や日本語による教理書、教会暦などが伝承されました。墓地も外見は仏式ですが、独特の埋葬方法をとり、殉教したキリシタンの処刑地を聖地として密かに崇敬していました。また、寺社や山岳など、在来宗教の信仰の場を自分たちの信仰の場として共有し、祈りを捧げていました。 外海の山中にある市指定史跡「次兵衛岩洞窟」は、日本人司祭トマス次兵衛が潜伏していた隠れ家として伝えられている場所で、記念碑としてマリア像が建立されています。次兵衛神父は、禁教令による迫害を逃れマニラに渡りましたが、密かに帰国し、厳しい取締りのなかを変装し居場所を変えて各地を宣教した人物です。寛永14年に捕らえられ、長崎で殉教したと伝えられています。
(所在地)長崎市神浦扇山町次兵岩403-4

「沈黙」の舞台・長崎市外海地区
1カ月後、訪れた一人の女性が神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」とささやきました。禁教令から2世紀もの時を経て再会を果たした宣教師と潜伏キリシタン…これが世にいう奇跡の「信徒発見」です。

お上の目が届かない地での潜伏生活
ある女性の一言が「信徒発見」へつながった!
信徒であることを告白した潜伏キリシタンたちが暮らしていたのは長崎市浦上周辺。当時はのどかな農村で、幕府直轄地として役人が目を光らせる中心地から外れていました。ちなみに外海は道が険しく容易にアクセスできない環境だったので、監視の目を逃れられたのでしょう。
神父に話しかけた女性は、実は近所の人に「幕府の罠だ。行くな。」と大浦天主堂訪問を止められた、という説もあります。女性の行動力で時代は動いたのですね!
長崎と天草地方の潜伏キリシタン集落では、それまで続けてきた独自の信仰を続けるもの、カトリックに復帰するもの、また仏教や神道に変わるものが現れました。カトリックに復帰した集落では、潜伏時代の指導者の屋敷跡や、移住先のわずかな平地、海の眺めが良い場所などに、信徒自らの労働奉仕や献金などによって教会堂が建てられました。大浦天主堂には聖堂が建ち、大正時代にはレンガ造りの浦上天主堂が完成。やがて長い長い冬の季節を耐えて春を迎えた花々のように、各地にも次々と教会堂が建てられていきました。
旧羅典神学校
禁教解除を機に日本人神父養成のため設立された旧羅典神学校では、授業はすべてラテン語で行われていました。大浦天主堂横の木骨煉瓦造の建物で、国の重要文化財に指定されています。
(所在地)長崎市南山手町5−3
(問い合わせ)095-823-2628