わずかな平地に広がる市街地以外は山に取り囲まれている長崎の町。なかでも他都市に例を見ない特徴は、その山頂近くまで民家が建ち並んでいることだ。取り囲む山の一つ、稲佐山から望む1000万ドルと称される夜景もまた長崎の魅力の一つだが、その夜景を構成するひとつひとつの灯りは繁華街のネオンなどではなく、ほとんどが山に張り付くように建つ民家からこぼれる灯りなのだ。
斜面地での暮らしの中で日々上り降りする坂道。石段だったり急な傾斜の坂だったり、あるいは坂と石段が組み合わさった坂段だったりと斜面地の住宅街にはいろんな坂道が縦横無尽にはりめぐらされている。そして、そんな坂道には愛着を込めた愛称やいい伝えなどを由来とした名前がついているものも多い。

東山手には全国的に有名な "オランダ坂"がある。この坂道は、居留地に住む外国人達が日曜毎に日本初のプロテスタントの教会・英国聖公会会堂へ礼拝に行く際通っていた坂道だといわれている。出島に住むオランダ人の影響から長崎の人々は開国後も東洋人以外を「オランダさん」と呼び、「オランダさんが通る坂」という意味で居留地の坂を全てオランダ坂と呼んでいたそうだ。
同じく居留地時代、多くの外国人が住んだ南山手にあるのは"どんどん坂"。外国人達が伝えたのだろう、坂の脇には水流の速さを調節する三角溝と呼ばれる側溝がある。雨が降るとドンドンと音をたてて流れるからどんどん坂なのだ。
寺院が建ち並ぶ寺町周辺、大音寺と皓台寺、長照寺と延命寺の間のいずれも風頭山頂へと続く坂道は"ヘイフリ坂"。風頭山の石を切り分け運ぶ人々に御幣をふりかざし励ましたことに由来している。
![]() 今も数棟の洋館が建ち、居留地の風情が色濃く残る南山手の住宅地にあるどんどん坂。
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![]() 寺町周辺の大音寺と皓台寺、長照寺と延命寺の間のほかに、筑後町にある東本願寺東側の石段もヘイフリ坂(幣振坂)と呼ばれている。
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贋金作りの唐人・何 旻徳(か ぴんとく)が処刑され、彼を慕った遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。阿登倭を葬った傾城塚(けいせいづか)があることから名付けられた旧茂木街道の"ピントコ坂"は結構険しくて長い坂道。
正覚寺電停近く、崇福寺入口バス停から丸山へと上る細い石段交じりの"丸山オランダ坂"は、なんと東山手にあるオランダ坂よりも古く、名付けられたのは江戸時代のこと。実はここが本家本元のオランダ坂なのだ。
![]() 丸山オランダ坂の名前の由来は2つ説があり、ひとつは西洋料理店・福屋への通り道の坂。もうひとつは丸山遊女が出島(オランダ屋敷)へ向かうための坂道だったというもの。丸山の歴史を考えると、どちらもありえる話だ。
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![]() 旧茂木街道にあたる東小島?中小島にかかる墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続くピントコ坂。
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なだらかな傾斜でとろとろ歩けるからか? 実際の由来は不明だが、シーボルトゆかりの町・鳴滝近くにある"トロトロ坂"は、長崎開港の3年前、清時代の江南風に舗装されたエキゾチックな石畳の坂道だ。
ときには苦になることもあるが、居留地に住んだ外国人達を含め、いつの時代も長崎の人々は坂の周囲の佇まいや高台の住まいから見える景色を心から愛した。それぞれの坂の由来を知り、その坂に代々慣れ親しんできた長崎の人々の暮らしを思い描きながら歩くと坂の魅力が倍増するんじゃないだろうか?
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![]() 新中川町電停から鳴滝川の上流方向へ一筋入った場所に橋が架かる江戸時代、長崎街道の玄関口だった古橋(中川〈なかご〉橋)から続くトロトロ坂。
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