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<龍馬ゆかりの人物の墓>
<幕末モニュメント>
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| 亀山社中は、坂本龍馬とその同志により設立された結社で、日本初の商社と言われている。活動期間は約2年であったが、海運業などの活動の他に、薩長同盟など
にも参画するなど、幕末・維新史において、重要な役割を果たした。老朽化した建物を当時の建物に限りなく近い形に改修
・復元し「長崎市亀山社中記念館」として平成21年8月にオープン。龍馬のブーツなどのレプリカや書状の写し、亀山社中の志士達の写真等が展示されている。
また、平成23年1月より龍馬に造詣が深い武田鉄矢氏が名誉館長を務めている。 <住所> 長崎市伊良林2−7−24 |
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⇒「長崎市亀山社中記念館」公式HPはこちらから |
| 延宝元年(1673)、立山に長崎奉行所立山役所が開設され、明治維新までその役割を果たした。
坂本龍馬は、元治元年(1864)2月に勝海舟、随行し初めて長崎を訪れ、また慶応3年(1867)7月のイカル
ス号事件(※)では、海援隊士に嫌疑がかけられ、龍馬は立山役所での取調べに出頭した。
現在は長崎歴史文化博物館として、全国でも有数の「海外交流史」をテーマにした博物館となっている。また館内には平成23年10月30日までの期間限定で「長崎奉行所・大河ドラマ館」が設置されている。
※英艦イカルス号の水兵2名が丸山で殺害された事件
<住所> 長崎市立山1−1−1 |
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⇒「長崎歴史文化博物館」公式HPはこちらから ⇒「長崎奉行所・大河ドラマ館」公式HPはこちらから |
| 長崎港を見下ろす眺望の丘にある長崎随一の観光名所。龍馬が結成した「亀山社中」とも交流があった貿易
商トーマス・ブレーク・グラバーやウイリアム・オルトなど幕末に開港した日本との貿易を担った外国人商人た
ちが居を構えた地として、居留地時代の面影を今に伝えている。 <住所> 長崎市南山手8−1 |
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⇒「グラバー園」公式HPはこちらから |
| 龍馬が長崎最後の滞在時期に行った商事活動のひとつに、出島の中に店を構え土佐藩の主な取引先だった
ハルトマンとのライフル銃1300挺の買い付けの契約があったことが「海援隊商事秘記」に記されている。出島
に今も残る旧石倉は、ハルトマンが使用していた倉庫だった。 <住所> 長崎市出島町6−1 |
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⇒「出島」公式HPはこちらから |
| 坂本龍馬をはじめ、亀山社中、海援隊士、幕末の志士、幕末・明治期の長崎の風景などの古写真、龍馬の手
紙の写しなどの貴重な資料を展示している。
<住所> 長崎市伊良林2−9−2 |
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⇒「亀山社中資料展示場」公式HPはこちらから |
| かつて、江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大花街の一つだった長崎の丸山。その丸山随一の妓楼・引田屋の
風情をそのままに、唯一現存する江戸時代の丸山遊郭の建物で、現在は料亭。海援隊士や岩崎弥太郎など、幕末
の志士が多く訪れた。 <住所> 長崎市丸山町2−1 |
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⇒「史跡料亭 花月」公式HPはこちらから |
| 本蓮寺は、元和6年(1620)に日慧が開創。長崎三大寺の一つ。お寺が建てられる前は、長崎三大教会の
一つ、サン・ジョアン・バプチスタ教会とサン・ラザロ病院があった。幕末に勝海舟が海軍伝習所で航海術
を学んだでいた頃、このお寺の一角に住んでいた。
<住所> 長崎市筑後町2−10 |
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⇒「本蓮寺」の説明はこちらから |
| 長崎三福寺の一つ。大雄宝殿などは原爆で全焼するまでは国宝に指定されていた。元治元年(1864)、幕府により派遣された勝海舟に同行した坂本龍馬は、この時に初めて長崎の地を踏んだ。
その際に、福済寺を宿泊所とした。 <住所> 長崎市筑後町2−56 |
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⇒「福済寺」の説明はこちら |
| 聖福寺は、延宝5年(1677)に鉄心が開創した黄檗宗の唐寺で、長崎四福寺の一つ。中国でおめでたい果
実とされる桃の浮き彫りがあちらこちらに見られる。境内にはじゃがたらお春の碑や茶せん塚、末寺の瓦を
埋め込んだ瓦塀、大雄宝殿の甍など見どころが多い。慶応3年(1867)には、坂本龍馬率いる海援隊が伊予大州藩から借り上げた船・いろは丸と紀州藩船・明
光丸が衝突した「いろは丸事件」の談判があり、土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談の舞台となった。
<住所> 長崎市玉園町3−77 |
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⇒「聖福寺」の説明はこちらから |
| 毎年10月14、15日の大祭に奉納される「竹ン芸」(市指定無形民俗文化財)は有名。亀山社中の隊士をはじめ薩長土肥の藩士が訪れたとされる。境内には風頭公園の龍馬像の現像が建立されている。
<住所> 長崎市伊良林2−10−2 |
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⇒「若宮稲荷神社」の説明はこちらから |
| 土佐藩士。坂本龍馬とは敵対関係にあったが、長崎の清風亭で会談し、意気投合。龍馬が提案した「船中八策
」に基づき、前藩主に対して将軍に大政奉還させるよう進言した。象二郎が開設した土佐商会に岩崎弥太郎が勤
務したり、象二郎が経営していた高島炭鉱を弥太郎が譲り受けたり、2人の関係は大変深いものであった。後の明治政府では、逓信大臣などを歴任する。
<住所> 長崎市金屋町 |
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| 老舗の油商の旧家(油屋町)に生まれた大浦慶は、嘉永6年(1853)、オランダ商館員テキストルに日本茶
の見本を託し、海外に送った。それが功を奏し、約3年後にイギリス貿易商・オルトとの1万斤(約6トン)
の取引となり、以後、日本茶を海外に輸出して、莫大な利益を得るととも日本茶を世界に広めた。また坂本龍馬をはじめとする幕末の志士達とも交流があり、彼らの長崎での活動に際し、支援を行っていたとも伝えられている。 <住所> 長崎市油屋町 |
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| 清風亭は、旧榎津町にあった料亭で、慶応3年(1867)、坂本龍馬と後藤象二郎が初めて会談を行った場所。
それまで、仇敵だった二人が、この会談等を通じて、以後、供に力を合わせて政治活動に邁進。同年4月には土
佐海援隊が成立、10月には大政奉還が実現したことから、この「清風亭会談」は、幕末史上、極めて重要な出来事の一つとされている。現在、跡地には説明板が設置されている。また同料亭で実際に使われていた調度品が、「長崎まちなか龍馬館」で展示されているのも必見! <住所> 長崎市万屋町 |
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| 沢村惣之丞は坂本龍馬とともに土佐藩を脱藩し、勝海舟に入門。常に龍馬と行動を供にしたが、慶応4年(1
868)1月、海援隊が長崎奉行所を占領したとき、誤って薩摩藩士を射殺した責任を取り切腹した。本蓮寺の裏
山にある墓碑には「関雄之助延世」の名前が刻まれている。 <住所> 長崎市筑後町 |
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| 近藤長次郎は土佐出身で、“龍馬の片腕”と呼ばれるなど活躍したが、慶応2年(1866)、英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われ、小曽根邸内で切
腹。のちにそれを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と妻・お龍に語ったという。彼の墓は小曽根家の墓域にある。墓碑の「梅花書屋氏墓」は龍馬筆とも言われている。
<住所> 長崎市寺町 |
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| お慶が信仰していた「歓喜天(かんきてん)」を祀る聖天堂のある清水寺本堂から100m程上った高台にある。 <住所> 長崎市高平町 |
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| 風頭公園内の「坂本龍馬之像」すぐ下の墓地の一角にある。龍馬之像、「竜馬がゆく」文学碑とあわせてぜひ訪れたい。
<住所> 長崎市伊良林3 |
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| 土佐商会跡に土佐藩船「有顔丸」と土佐藩の保護のも
とにあった海援隊の旗のモニュメント。
(土佐商会跡に設置)
<住所> 長崎市浜町 |
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| 月琴を弾くお龍の様子を再現。龍馬ゆかりの地を訪れる人々の心に、お龍が奏でた月琴の音色が響き、優しい気持ちになれるようにとの思いが込められている。(小曽根家邸宅跡に設置)
<住所> 長崎市万才町 |
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| 幕日本写真術の開祖・上野彦馬の功績を顕彰し、上野撮影局で撮られた龍馬の写真と同じ構図で記念撮影ができるように、同撮影局の写真機と肘置き台を再現。(上野彦馬宅(上野撮影局)跡に設置)
<住所> 長崎市伊勢町 |
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| 日本の活版印刷の創始者・本木昌造の新町活版所跡に、現代活版の本木活字を復刻し、リアルに表現。
<住所> 長崎市興善町 |
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