村松春甫1772〜1858画
一茶記念館蔵(長野県信濃町)



■DATA■
滞在期間/寛政5年(1793) 期間は不明
連れ/なし
目的/俳句行脚


小林一茶●こばやし・いっさ
/宝暦13年〜文政10年(1763〜1827)。
江戸俳諧の巨匠。長野県北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の長男として誕生。本名は弥太郎。3歳で生母を失い8歳で継母を迎えるが、馴染めなかった一茶は、15歳の春、江戸奉公に。25歳頃には俳諧の一派、葛飾派に属し、俳諧を学ぶ。継母との精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめ、恵まれない人々への共感や子ども達、小動物への同情や愛着など、2万句にもおよぶ俳句は多種多様。



俳句の世界の登竜門的存在
明快で奥深い俳人、小林一茶

江戸時代を代表する俳人、一茶。芭蕉よりも身近で、蕪村よりも直接的。一茶の句は、読む人の心にスッと入り込んでくる不思議な力を持っている。どことなくユニークな一茶の句とはじめて出会うのは、今も小学校低学年だろうか。

痩蛙まけるな一茶是に有(文化13年/1816)

子どもながらに、痩せて弱々しいカエルに自分自身を投影し、励まし、応援する情景を想像した…そんな記憶が、今でもうっすらと残っている。

やれ打つな蠅が手をすり足をする(文政4年/1821)

ハエが手足を擦り合わせる姿を観察する一茶。身近な虫の登場にざわつく教室。弱く小さい命への愛と憐れみを詠んだ、明快でダイレクトに伝わるこの句には、江戸時代の人とは思えない親近感を感じたものだ。

そんな国民的詩人、小林一茶が長崎を訪れていたことはあまり知られていない。25歳から俳句の世界に飛び込んだ一茶は、30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に出た。それは、彼の生涯における一大行脚で、その名も「西国行脚」。来る日も来る日も句作に明け暮れ、一茶は、各地で知り合った俳人と交流した作品を残していった。芭蕉没後99年、蕪村没後9年が過ぎていた当時、俳諧を生業とする「業俳」は、僧侶や武士、あるいは医者など裕福な階級で趣味として俳諧に関わる「遊俳」らによって支えられることもしばしばだった。一茶がこの7年におよぶ「西国行脚」で、労働することもなく旅が続けられたのも、各地で一茶に衣食住を提供した「遊俳」達の存在があったからだ。一茶が長崎を訪れたのは、寛政5年。当然、鎖国の最中。その頃の長崎の様子は、円山応挙によって寛政4年(1792)にかなり精緻に描かれた『長崎港図』そのものだったと考えられる。一茶来崎後、寛政7年には中島川に架かる石橋が次々に流失した「寛政の大水害」が起こり、寛政10年(1798)には「寛政の出島大火」で出島内の建物は焼失するなど、長崎の町には災難が続いた。唐三か寺など中国色に溢れ、西洋の薫りも漂う、一茶はそんな平穏で華やかな町の姿を目にしたことだろう。この時一茶は、十善寺郷の唐人番の屋敷に滞在したと伝えられている。そして、池辺家十人町(長崎村十善寺郷字十人町)がその中の一つと考えられ、小林一茶寄寓の地なのだという。

君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり(寛政5年/1793)

長崎滞在中に詠まれた句だ。一茶は「日本」を題材とした句を多く詠んでいる。そして、そのほとんどは、文化文政年間に詠まれたもので、長崎来訪以後。まさしく、日本に西洋の波がおしよせ、幕末へ突入する直前の混乱と発展が入り交じった時代に詠まれたものだ。長崎で唐人達に出逢い、接触を持ったことが一茶に、より「日本」を意識させるようになったとも考えられるだろう。
江戸に帰り着いた一茶は36歳の壮年期に到り、俳人としての基礎も固まっていた。この長崎滞在を含めた「西国行脚」は、一茶に俳人としての成長をもたらしたまさしく一大行脚だったのだ。
 


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