日本はなぜ近代化を必要としたか?

日本は幕末から明治にかけて、西洋の技術や知識を幅広く吸収し、約50年という類まれなスピードで産業化を成し遂げました。そのきっかけとなったのが、ペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊4隻の入港です。風がなくとも進む蒸気船を目にした武士たちは、一刻を争うように製鉄・製鋼、造船、石炭産業といった重工業の近代化へと奔走します。日本を守るために人材を育成し、いち早く最新の海外技術を導入した長崎は、日本の「近代化」において大きな役割を果たしました。そして、今も受け継がれる産業を目にすることができます。サムライたちが残した素晴らしい資産を訪ね、激動の時代へと想いを馳せてみましょう。

「外国の脅威から日本を守る」という想いが近代化の原動力だった。

1840年に起こったアヘン戦争での清の敗戦は、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃を与えました。
「海を自由に走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持ち、大国清でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない」という強い危機感が生まれます。
さらにアヘン戦争後に書かれた中国・魏源の「海国図志(中国・西洋の地図・歴史・西洋の技術等を解説した書)」により日本に伝えられると、日本国内の各藩に強い危機感と、改革の機運が一層広がっていきます。
この出来事は幕末に活躍する吉田松陰、佐久間象山、勝海舟、坂本龍馬等志士達にも多大な影響を与えたと言われており、この時代から日本の近代化は急速に加速していきます。

イギリスの技術を日本にもたらしたトーマス・ブレーク・グラバー

蘭学書といった参考書だけをたよりに、産業化へと挑戦しつづけていた武士たちに、強い味方が現れます。1859年の開港と同時に長崎にやってきたスコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーです。まだ21歳という若さでしたが、商人としての才能に恵まれ、23歳でグラバー商会を立ち上げています。今、旧グラバー住宅としてグラバー園に残る木造洋風住宅は、彼の自宅兼事務所として1863年に建てられました。船舶の往来や、目の前に建設された長崎製鐵所が見渡せるこの場所には、多くの外国人が訪れ、また産業化を目指す武士たちにおいても、最新の技術情報を得ることができる重要な場所になっていきます。

揺れる幕末。その中でたゆまぬ技術の導入が進められた。

危機感を募らせた諸藩の志士たちは蘭学書を片手に西洋科学へと挑戦していきます。鹿児島や萩では、産業に欠かせない鉄づくりのための反射炉が作られるなど、各地で様々な試行錯誤が続けられます。1853年の黒船来航後、海防の強化のため江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定、1855年には士官を養成する長崎海軍伝習所を設立し、のちに活躍する多くの志士を育てます。
1861年には日本初の本格的な洋式工場「長崎製鐵所」を完成させ、数年前まで紙やすりでねじ山を削っていた職人は、オランダから取り寄せた工場のねじ切り盤や工作機械の職工として、西洋科学を習得、日本重工業の礎を築きました。

藩士たちをロンドンへ。人材育成が近代化を加速させた

生糸やお茶の輸出などを中心にビジネスをしていたグラバーでしたが、薩摩藩から注文された船の斡旋を機に、西南雄藩と艦船や武器の密貿易を始めています。ここから、グラバーと藩士との強い繋がりが生まれてきます。世界の産業技術を知りたいと切望していた藩士たちのイギリス留学を手助けします。
1863年には、長州藩士である伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)、山尾庸三(やまおようぞう)、遠藤謹助(えんどうきんすけ)、井上勝(いのうえまさる)の五人(長州ファイブ)を横浜からロンドンへ。さらに、1865年には薩摩藩士である五代友厚(ごだいともあつ)、寺島宗則(てらしまむねのり)、森有礼(もりありのり)ら19人(薩摩スチューデント)を渡航させています。彼らは世界をリードしてきたイギリスの産業を直接学び、その優れた技術を手にして日本に戻ってきます。そして彼らこそが、明治日本の近代化を先導する重要な人物となっていくのです。

イギリスの科学技術と外国人技術者の直接導入

グラバーは、留学から帰ってきた薩摩藩士たちと合弁事業を立ち上げ、船を修理する「小菅修船場」を建造しています。この事業には機械類をイギリスから直接輸入するという大きな投資をしています。また、薩摩藩が目指していた近代的な紡積工場の建設にも、イギリスから技師を呼び寄せるなど、技術の直接的な導入も行っています。さらに高島炭坑の開発には佐賀藩と協力、英国人技師モーリスを雇い、日本で初めてとなる蒸気を動力とした捲き揚げ機を使用。効率的で大規模な採炭を成功させました。つまり、試行錯誤の状態から本格的な技術をイギリスから直接導入させたグラバーの行動は、日本の近代化を加速させた大きな要因となったのです。

ロンドン留学生の活躍

ロンドンに留学した長州ファイブは明治政府の中で活躍しています。伊藤博文は44歳の若さで初代内閣総理大臣になり、産業の発展と新しい国づくりに尽力しました。井上馨は初代外務大臣に就任。山尾庸三は明治政府の工部卿に、井上勝は鉄道庁長官として鉄道事業を発展させました。遠藤謹助はグラバーが手助けした造幣局に務め、造幣局長にまで上りつめています。日本を守り、新しい日本を建国していった素晴らしい人材を育成したのは、まさにグラバー。彼がいたからこそ、急速な日本の近代化があったと言えるのかもしれません。

わずか半世紀で世界ランクに仲間入りを果たした日本の産業

蒸気船の普及により、石炭の需要が高まる中、グラバーの采配において日本初の蒸気機関を使った近代炭坑「高島炭坑」が誕生します。その優れた技術は、長崎では端島炭坑(軍艦島)、そして三池炭鉱へと広まり、近代的な炭鉱が次々と造られていきます。
鉄鋼業においても、1901年、官営八幡製鐵所において欧米に匹敵する規模の高炉に火が入り、操業が開始されます。

造船業では1884年に、長崎製鐵所が三菱の経営となり長崎造船所と改名、着実に発展していきます。造船は様々な機械を使う総合産業で、その技術は炭鉱機械や農機具にも転用されていきました。
そして1898年、三菱合資会社三菱造船所は、日本で初めて6,000トンを超える大型貸客船「常陸丸(ひたちまる)」を建造。保険の対象になる船舶を検査する英国ロイド船級協会によって、初めて船級を付与されました。
日本で初めて蒸気船が建造されてからわずか50年で、日本は欧米列強に肩を並べる造船大国となったのです。

長崎港外に浮かぶ高島ではもともと良質な石炭が埋蔵しており、19世紀初めにはすでに商品価値があるものとして、組織的に石炭の採炭が行われていました。高島の炭坑がさらなる発展を遂げた背景には、トーマス・ブレーク・グラバーの存在があります。佐賀藩と手を結んだグラバーは近代的な採炭方式を導入し、日本初の竪坑「北渓井坑(ほっけいせいこう)」を完成させます。これにより高島は質、量ともに国内有数の炭鉱へと発展しました。
 明治維新後も多くの外国船が寄港する長崎では燃料に利用するための石炭の需要が高まり、さらに1889(明治22)年には佐世保が軍港に指定されたこともあって、県内の石炭産業は飛躍します。
 しかし日露戦争終結後は需要が減少。輸入炭の増加もあり、衰退へと向かいました。第二次世界大戦後、ふたたび石炭の需要は高まりますが、石油への移行により、県内の炭鉱は池島炭鉱を最後にすべて閉山となりました。

 江戸時代、唯一の開港場だった長崎は、様々な産業の発展の拠点として大変重要な場所でした。1861(文久元)年には日本初の洋式工場「長崎製鐵所」が完成し、多くの西洋技術がもたらされました。また近代的造船所や最初の汽船が製造されたのも長崎でした。そして、常にその発展を支え続けたのが石炭産業だったのです。
 近年、「軍艦島」の名で注目を集める端島では、当時の時代の先端技術を結集した産業都市づくりが行われました。高層鉄筋コンクリート造のアパートや、対岸の水源から高島、端島へと水を供給する海底水道工事も国内初の試みでした。長崎は日本の近代化の先駆けだったのです。

近代化と石炭産業② 長崎県の石炭産業の位置づけ

 かつて長崎県内の全産業の中でも、石炭産業は重要な位置にありました。1960(昭和35)年の最盛期には、県下の石炭産業が全生産所得に占める地位は1619億円中、127億円と約8%。また松浦市では42.5%を示しているほか、その他の地域でも高い割合が記録されています。国内全体はもちろんのこと、長崎県の経済面において石炭産業は大変重要なものだったのです。

日本で最初に近代的な採炭法を導入したのは高島の炭坑でした。高島で成功をおさめた最新の採炭技術は、それまで人力にのみ頼っていた国内の他の炭鉱にも波及していき、日本の近代化を支える大きな原動力となりました。
ピーク時には国内で生産される石炭の約10%を占めていた長崎県の石炭。製鉄業に必要なコークスの原料となる優良炭が多いことに加え、画期的な採炭技術を率先して用いたことは、日本の石炭産業への大きな貢献となりました。

造船業と石炭産業② 三菱造船所の誕生と発展

 1855(安政2)年、江戸幕府は海軍創設を目的として、長崎に海軍伝習所を開設しました。それにともなって蒸気船を修理する施設建造の必要に迫られた幕府は、オランダ海軍機関士官、ヘンドリック・ハルデスらを招いて「長崎鎔鉄所」の創設を企画。1861(文久元)年3月、日本初の本格的な洋式工場「長崎製鐵所」が誕生しました(建設中に「長崎鎔鉄所」から改称)。
 この「長崎製鐵所」の創設により、長崎の町中には全国に先駆けて近代技術がお目見えしました。中島川には日本で最初の鉄橋(現在の鐵橋の前身)が架けられ、グラバーと薩摩藩によって日本初の洋式近代的ドック「小菅修船場」も完成しました。そして1879(明治12)年には新政府の直営で「立神(第一)ドック」が完成し、修理だけでなく、新鉄船の建造もできるようになりました。
 しばらく官営の時代が続いたものの、1884(明治17)年、民営への移行方針が決まると、三菱は政府に「長崎製鐵所」の拝借願を提出し、工場施設を借用。「長崎造船所」としての経営が始まりました。その後、1887(明治20)年には政府から払い下げられ、正式に三菱の経営となりました。1893(明治26)年には三菱合資会社の設立にともない「三菱合資会社三菱造船所」と改称。その後、造船業が総合産業であるところから炭鉱機械、印刷機、農機具にいたるまで、近代化が波及していきました。
 1898(明治31)年、三菱合資会社三菱造船所は、国産の大型貨客船を建造します。それは日本で初めて薩摩が蒸気船を建造してから、わずか50年余りのことでした。日本は実に短期間のうちに欧米列強と肩を並べる造船大国になったのです。  (「三菱合資会社三菱造船所」は以降、数度の改組・改称を経て、現在の「三菱重工業株式会社長崎造船所」となります。)

日本初の洋式工場「長崎製鐵所」から始まる「造船のまち長崎」。その発展の歴史を今に伝える代表的な遺産を紹介します。

現役で稼働する
「ジャイアント・カンチレバークレーン」

 日本で初めて建設された電動クレーンです。電動モーター駆動で、当時最新のクレーンとして、1909(明治42)年にイギリスより輸入されました。長崎港に設置されてから100年余り。この巨大クレーンは現在も稼働しています。(非公開)

当時、東洋最大の大きさを誇った
「第三船渠」

 1905(明治38)年に竣工した大型乾船渠(ドライドック)です。明治期に第一船渠、第二船渠、第三船渠と続けて竣工しましたが、この第三船渠だけが唯一、現在も稼働しています。竣工時に設置されたイギリス製の電動排水ポンプは100年後の今も現役です。(非公開)

現存する日本最古のスリップドック
「小菅修船場跡」

1869年、薩摩藩とグラバーによって建設された船舶修理施設です。日本で初めて蒸気機関を動力とする曳揚げ装置が導入されました。船架の形状から「ソロバンドック」の名で親しまれています。また曳揚げ小屋は現存する日本最古の本格的な煉瓦造建築です。

三菱の造船の歴史を伝える
「旧木型場」

 長崎造船所に現存する最も古い建物です。1898(明治31)年に鋳物製品の鋳型を製造するための木型製作工場として建てられました。現在は史料館として一般公開(事前予約制)されており、長崎造船所の歴史を紹介しています。

長崎港を望む歴史ある迎賓館
「占勝閣」

 第三船渠を見下ろす丘の上に建つ木造の洋館です。1904(明治37)年に長崎造船所長の邸宅として建てられましたが、所長宅としては使用されず、迎賓館として使用されました。現在もほぼ創建当時の美しい姿をとどめており、進水式や引渡式の祝賀会、貴賓の接待などに使用されています。(非公開)