• 龍馬とグラバー

長崎の星 龍馬とグラバー交遊録
				長崎を舞台に明治維新を導いたといわれる二人の活躍。その接点と秘められた交流エピソードを探ってみましょう!

画像 トーマス・グラバー(グラバー園HPより)

画像 長崎市の中嶋河畔に上野彦馬が開いた上野撮影局での龍馬。(長崎歴史文化博物館収蔵)

革命前夜、二人の風雲児が長崎で描いた夢は…

明治維新は長崎から!という言葉を証明するようなグラバーと龍馬の交流、まさに知る人ぞ知る歴史物語です。新しい時代への胎動が始まっていた幕末、日本を舞台に一大コンツェルンを築こうという野心に燃えるグラバーと、古い日本を洗濯し、広い世界に羽ばたきたいと考えて長崎を訪れた龍馬。グラバーの手記に龍馬の記述は在りませんが、親しいものほど記録に残さないもの。二人は出会ってすぐに意気投合したに違いありません。と思うほど二人の共通項は多いのです。史実と想像をクロスさせながら、二人の交流に想いを馳せてみませんか。あなただけの素敵な龍馬とグラバーの物語が生まれることでしょう。

※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識と人物評価には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。

「長崎はわしの希望じゃ!」龍馬を感激させたグラバーとの出会い

画像 龍馬もお洒落で有名。グラバーから調達したブーツを愛用したともいわれている

時は19世紀。鎖国下の幕藩体制のもと、生涯を一か所で終える人間が大半であった時代に、土佐藩を脱藩して放浪していた龍馬は広く日本を見聞した数少ない一人。彼の夢は狭い日本に留まらず大きな世界へ羽ばたいていました。
かといって当時は海外への渡航はご法度、根っからの自由人である龍馬の心身はジレンマで破裂しそうだったかも?そんな時に赴いた長崎はまさに世界の窓。2度目の訪問で、龍馬はグラバー邸に赴き、グラバーと初めての挨拶を交わしますが、自分と大して年の違わない異国の青年が長崎を舞台に大きくビジネスを展開していることに驚きと畏敬の念を覚えました。と同時に長崎が自分の希望を後押ししてくれる地であることを直感。
グラバーも青雲の志に燃える龍馬を見て、この男が日本を変える!と確信したのではないでしょうか。これまでの日本人とは違うスケールの大きさを感じ、グラバーが思ったことは。『おもしろい。一国の運命が変わる画期的な瞬間に立ち会えるかもしれない』…。

青年グラバーは、細面のイケメン!

画像 若き日のグラバー。伝聞では洒落者で俳優張りのイケメンであったとか

~野望を胸に若干21歳で極東の地へ〜

開国前の日本は欧米から見れば未開の地。そこへ21歳の若さで赴いたグラバーとはどのような人だったのでしょう。母国はスコットランド。
安政6年(1859年)に上海経由で長崎に。1861年、グラバー商会設立。龍馬をはじめ長州や薩摩などの藩士たちと交流を深めつつ、日本の革命を予感。幕府や各藩に武器や船舶などを販売し、莫大な利益を得ました。
ある意味で日本の混乱を利用して成功したやり手ともいえますが、時代を見る目があったということでしょう。何よりも危険を省みず未知の大海原を渡ってきた開拓精神、冒険心は特筆もの。その情熱に龍馬も魅了されたのでしょうね。
明治3年(1870年)にグラバー商会は倒産。グラバーは土佐出身の岩崎彌太郎経営の三菱財閥の顧問となり、明治30年に東京に転居しました。
彼の功績は日本にわが国初のものをいくつも伝えたこと。蒸気機関車、小菅修船場(ドック)の建設、近代的な採炭技術を導入した高島炭鉱の経営、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちの麒麟麦酒株式会社)設立に関わるなど日本の近代化に多く貢献しました。享年73歳。朝食のスープを飲み干した直後に倒れ、そのまま逝去。家族とともに長崎の坂本国際墓地に眠っています。

イケイケどんどん!サクセスストーリーを歩むグラバー君。

~25歳頃であのグラバー邸を! 隠れ部屋があった屋敷に訪れたメンバーとは〜

元々、フロンティア精神が旺盛なところに商才に秀で、状況判断、特に人の心の機微に敏感なグラバーは、異国の地であったはずの日本、長崎にどんどん馴染んで、やり手の貿易商として活躍。この貿易で大きな利益を得たグラバーは、若干25歳頃で居留地でもあった山手に瀟洒な邸を建てました。

グラバー園
南山手の高台に位置し、長崎港をはじめ長崎市内を一望する風光明媚な観光名所。園内には国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅ほか市内に点在していた6つの明治期の洋風建築が移築復元されていて、居留地時代の面影が漂う。
(所在地)長崎市南山手町8-1 (問い合わせ)095-822-8223

画像 夫人部屋前の廊下の天井は、隠れ部屋がある
(グラバー園HPより)

画像 旧グラバー住宅

グラバーに憧れ、慕った若き藩士たち

画像 稲佐山から見る今の長崎港

画像 大浦居留地から望む明治初期の長崎港
(長崎歴史文化博物館収蔵)

長崎港を見下ろすグラバー邸には文字通り異国の風が吹いていました。商人だけでなく、その頃、長崎を訪れた各藩の藩士たちも、西洋の珍品が飾られた豪奢なグラバー商会に集います。いずれも幕末から明治にかけて活躍した人物ばかりですが(明治時代の元勲のほとんどがグラバー邸に通っていた!)グラバーの何が彼らを惹きつけたのでしょうか。
もちろん、様々な人脈が集うサロンとしての魅力もありましたが、彼から伝えられる世界の情報が一番のおもてなしであり、ご馳走でした。欧米列強のアジア侵略、未知の国々の概要、グラバーの故郷、スコットランドの文化風俗、興味深い食生活、そして銃を筆頭とする精鋭武器の数々。ちなみにサロン・グラバー邸には隠し部屋まであったといわれていますが、まるで忍者屋敷みたいですね。ここでどんな密談があったのか興味深いですね。

コラム 龍馬と長崎

龍馬、初めての長崎は勝海舟と

龍馬が初めて長崎を訪れたのは元治元年(1864年)の2月。外国連合艦隊の長州への報復攻撃に対する調停のため神戸から長崎へ向かう勝海舟に随行してのこと。長崎海軍伝習所や神戸海軍操練所などで教官を務めた海舟は海洋学と航海術の師でもありました。これが後の亀山社中の設立や海援隊につながっていくのですが、既に開港していた初めての長崎では居留地での建設ラッシュが始まっていて、文明開化の灯りが眩しいほどに光り輝いていました。龍馬にとって見るもの体験するものすべてが初!宿泊先の福済寺では大男の龍馬と小柄な海舟が相撲を取ったとか。龍馬のワクワク感が伝わってくるエピソードですね。

龍馬の気分になって、宿泊先だった福済寺近辺を歩いてみよう!

長崎四福寺のひとつである福済寺には昭和54年、戦争の犠牲者を弔うために建立された34mの観音像があります。また、このエリアには長崎の四福寺のひとつ、聖福寺も。境内にはじゃがたらお春の碑、末寺の瓦を埋め込んだ瓦塀などなど見どころの多い唐寺です。さらにキリシタン弾圧の際に多くのキリシタン信者が投げこまれたと伝わる南蛮井戸が残る本蓮寺も近くに。勝海舟が海軍伝習所で航海術を学んでいた頃に寄宿していた由緒あるお寺です。
JR長崎駅、路面電車の「長崎駅前」、「桜町」停留所からも近くて便利ですので、当時の龍馬が歩いたであろう道すじを散策してみてはいかがでしょう。

福済寺 福済寺 1649年開創。創建には長崎在住の唐人が多く尽力した。1864年には幕府から派遣された勝海舟に同行して龍馬が初めて長崎を訪れ、宿泊。 (所在地)長崎市築後町2-56

聖福寺 聖福寺 1677年開創。中国でおめでたい果実とされる桃の浮彫が多く施されている。1867年、ここで土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎が「いろは丸事件」の談判がおこなわれた。 (所在地)長崎市玉園町3-77

本蓮寺 本蓮寺 1620年開創。前身は長崎三大教会の一つ、サン・ジョアン・バブチスタ教会とサン・ラザロ病院。キリシタン弾圧の悲劇を今に伝える。 (所在地)長崎市築後町2-10

観光丸 観光丸 長崎海軍伝習所の練習船として、安政2年(1855年)にオランダから幕府に贈られた。当時の姿に復元されて現在は長崎港でクルーズ船として活躍中。観光丸による長崎港クルーズについてはやまさ海運(株)まで。 (問い合わせ)095-822-5002

カンパニーを創った!ビジネスマン、龍馬

司馬遼太郎『竜馬がゆく』文学碑 司馬遼太郎『竜馬がゆく』文学碑 龍馬と司馬遼太郎のファンが多く訪れる。 (所在地)長崎市伊良林 風頭公園内

~龍馬の商才と商業的活躍が花開いた地、長崎~

薩長同盟締結の場となった京都が、龍馬の政治的な活躍の地であったとするなら、商業的な活躍の場が長崎。龍馬を"社長"とする亀山社中や海援隊などカンパニーが生まれた背景には、グラバーの存在が影響していたように思います。
船による運送や交易など海運事業を業務とする亀山社中では、働きに応じて給与が支払われるなど近代的な雇用形態が導入されました。
勝海舟を師として船の操縦と航海技術を学んだ龍馬にとって、長崎を拠点とする海運事業は世界へ羽ばたく順風の帆…大きな翼でした。まだ片翼ではあるけれど時代が回天すれば、やがて二つの翼で広い世界へ、未来へ…。
様々な形で龍馬の希望の地となった長崎。龍馬の夢を具現化していく過程を描いた司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の中に、長崎はわしの希望じゃ!という一文がありますが、この一行を抜き出した文学碑が長崎市伊良林に建立されています。龍馬の長崎への思いを共有できるスポットとして人気です。

日本回天!龍馬、長崎の地で歴史の表舞台に!

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画像 龍馬ゆかりの品々が陳列する「亀山社中記念館」の内部

~亀山社中を通じて、薩摩藩への武器調達で活躍するグラバーと龍馬~

グラバーが故国スコットランドから大きな志を抱いて大西洋を渡ってきた経過は、龍馬を大いに刺激しました。グラバーの話はどれもが冒険と開拓精神にあふれ、また様々な身分立場を超える人脈を駆使した交渉力、実務能力は卓越したものがありました。射利(営利)こそ正義。射利が人を動かし、体制を変え、国を変えたりするものだという論を持つ龍馬は、異国で商才を発揮し活躍するグラバーに、自分の理想の一部を見たことでしょう。ある日のこと。ランプの灯の揺らめく中でワインを飲みながら…二人は一つの商談を成立させます。亀山社中を代理店として、最新式銃の輸入を。

長崎を舞台に!

亀山社中跡(長崎市亀山社中記念館) 亀山社中跡(長崎市亀山社中記念館) 亀山社中は慶応元年(1865年)、薩摩藩や長崎の豪商、小曾根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同士が設立した結社。日本初の商社といわれている。幕末頃の窯、亀山焼の窯元で働いていた人々の住居後を活用した。老朽化した建物を改修復元して平成21年に「長崎市亀山社中記念館」としてオープン。名誉館長は武田鉄矢氏。 (所在地)長崎市伊良林2-7-24
(問い合わせ)095-823-3400

~薩長の壁を壊し、討幕への流れを加速させたグラバー~

龍馬は、武器を薩摩名義で購入して船で長州藩に送りました。この時、幕府軍の第二次長州征伐が迫っており、長州は早急に武器の調達を必要としていました。お礼として長州から薩摩へは飢餓で不足していた米が運ばれます。
これを機に、対立関係にあった薩長が慶応2年(1866年)、薩長同盟を結ぶに至ったことは有名ですが、武器調達を頼んだのが龍馬なのか、それとも既に手配してあったグラバーがもちかけたのかは歴史の謎。分かることはあまりにタイムリーで、これをきっかけに討幕への流れが一気に加勢したことです。二人は武器調達を協力し合うことで新たな時代の扉を開けたといえるでしょう。

重要人物もグラバーが龍馬に紹介?

画像 清風亭跡 清風亭会談で後世に名を残す(旧榎津町にあった)料亭。現在は跡地に説明板が設置されている。 (所在地)長崎市万屋町

画像 土佐藩参政であった後藤象二郎は、藩営商会の運営に尽力する一方、徳川将軍に大政奉還させるよう前藩主に進言した。高島炭鉱も経営していたが経営破綻。その後を岩崎彌太郎が引き継いだ。明治政府では要職を歴任(高知県立歴史民俗資料館蔵)

~清風亭での後藤象二郎と龍馬。歴史が大きく動いた場所~

龍馬と土佐藩の参政、後藤象二郎は長崎の榎津町(現・万屋町)の料亭、「清風亭」で会談。これは後藤からのたっての希望で実現したものといわれますが、土佐勤王党を弾圧した仇敵でもある後藤との仲を取り持ったのはグラバーという風説もあります。グラバー商会は、土佐藩の商社「土佐商会」とも取引があったからです。
当時、亀山社中の経営が思わしくなく、金策に行き詰っていた龍馬側の事情と、薩長優位の政局に焦っていた土佐藩側との事情が図らずも一致。龍馬を通して薩長のパイプを確保したい土佐藩は、「土佐商会」からの援助を約束し、亀山社中は「土佐海援隊」として再スタートします。脱藩罪に問われていた龍馬の特赦を働きかけたのも後藤象二郎だったとか。 海援隊の給料は土佐商会から支払われることとなり、このあたりの事情を見る限り、龍馬は大局を見る目はあっても、経営者としては少し甘かった? ただ、この会談がきっかけとなり、一気に大政奉還・明治維新へと回天していくことになるのですから、「清風亭」は日本の歴史を大きく動かした場所ということになりますね。

グラバーと三菱

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岩崎彌太郎とも深い結びつきが

土佐藩の商社「土佐商会」の責任者は、後の三菱財閥の基礎を築いた岩崎彌太郎。
龍馬とは同郷で、ビジネスマンとしては龍馬をはるかに凌ぐ力を持っていたようです。
グラバーの事業を引き継いだり、グラバーを三菱の顧問とするなど、彌太郎とグラバーは生涯を通してビジネスパートナーでした。
この頃、彌太郎は龍馬と給料の額で揉めています。勤勉な彌太郎と磊落な龍馬。
もっと出せ、いや出せない。そんなセリフが聞こえてきそうですね。

三菱の創始者・岩崎彌太郎の弟・彌之助とグラバー。
彌之助はグラバーを三菱の相談役として招いている
(グラバー園HPより)

龍馬にとってグラバーとは。

画像 龍馬像 風頭公園内に佇む龍馬像。長崎市在住の彫刻家・山崎和國氏によって制作され、平成元年5月21日建立された。寺町通り亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道「龍馬通り」は、長崎市の歴史探訪路となっている。 (所在地)長崎市伊良林3丁目 (問い合わせ)095-829-1171

~志半ばで倒れた龍馬。その生涯は長崎で輝いた!~

勝海舟に伴われて初めて長崎を訪れたのが1864年。翌年、龍馬は「亀山社中」を結成して約2年間、長崎に滞在。海運業を手掛ける一方で討幕活動に奔走しました。薩長同盟への道筋を敷く、その活躍は日本の夜明けを導く礎となりましたが、1867年に志半ばにして京都で暗殺されました。享年32歳。
旧体制から新しい時代への過渡期を、激動の嵐の中を、龍馬自身が疾風のように走り抜けた、そんな感があるドラマティックな人生ですが、その生涯は長崎で最も輝いたような気がします。龍馬自身も姉の乙女にあてた手紙で『長崎へ来ると元気になる』と長崎への思いを綴っていますが、食いしん坊で大食漢でもあった龍馬は長崎の食べ物にも目がなかったようですね。
そして、長崎で得た多くの知己…。そのNO.1がグラバーでした。風頭公園に建つ龍馬の像は遠く長崎港の向こう、大海原を見つめていますが、龍馬が希求していたのは、グラバーのように世界の海を渡って未知へ向かうこと、様々な異国の地で自由に生きること、思うがままに冒険すること…だったような気がします。二人の青年が共有したキーワードは自由と冒険と自己実現。その余りあるエネルギーが日本の近代化の導線になりました。新たな時代はいつも人と人が出会い、結び合って開かれていくのですね。長崎は今日も希望の地です。

龍馬とグラバー

史跡料亭 花月 史跡料亭 花月 長崎県指定史跡。寛永19年(1642年)に創立した遊女屋「引田屋」の庭園内に、文政元年(1818年)頃造られた茶屋。大正時代の引田屋廃業後、その建物、庭園、茶屋の名称を一体とした史跡料亭として現在に伝承されている。屋内の床柱には龍馬がつけたといわれる刀傷が残るなど、歴史的にも名高い人物が出入りしたことを物語る痕跡も。随所に和洋中の様式が取り入れられていて建築学的にも貴重な建物である。 (所在地)長崎市丸山町2-1
(問い合わせ)095-822-0191

長崎検番 長崎検番 日本三大遊郭の一つとして語り継がれる丸山遊郭。その中でも最大最高級の妓楼であった「松月楼」の建物を譲り受けて今に伝わる長崎検番。戦後の最盛期には100名いた芸妓も今は20名ながら、華やかな往時を想いながら見学に訪れる人が後を絶たない。 (所在地)長崎市丸山町4-1
(問い合わせ)095-822-0168

梅園天満宮 梅園天満宮 元禄13年(1700年)創建の丸山町の氏神様。創建者の災難の身代わりとなった天神様をお祀りしている。丸山の遊女たちもよく参拝したといわれる。入口付近に、なかにし礼氏の小説「長崎ぶらぶら節」の舞台になったことを記念した碑が建っている。 (所在地)長崎市丸山町2
(問い合わせ)095-822-8888

意気投合!二人の丸山遊びを


~長崎の紅灯の巷で豪遊?龍馬とグラバーの花街巡り〜

土佐海援隊の龍馬の給料は何と50両!この金額には今でいう交際費の要素も入っているようで事実、龍馬は花街「丸山界隈」で大いに羽を伸ばしたとも伝えられる。もちろん売れっ子芸妓との艶聞もチラホラ。
グラバーも自宅での園遊会やパーティとは趣の異なる花街遊びはそこそこお気に入りだったのではなかろうか。貿易商で「清風亭」の女将でもある大浦慶は、二人の共通の"年上の女友達"。龍馬とグラバーが連れ立って花街遊び…は大いにありえたことだろう。

~ビジネスでも一致した二人の感性~

射利(利益)という言葉が好きだった龍馬。さすが豪商「才谷屋」の分家に生まれただけあって、人が利益分配の原則に沿って動くことを看破。個人の集まりが国。ならば射利で人は動く。国も動く。これは故郷を遠く離れた異国で、ビジネスで自己実現を果たしたグラバーと共通する考えだったのでは。二人が意気投合し、熱く語り合う姿が見えるようだ。

お洒落で新し物好きの龍馬とグラバー

~ブーツが似合う龍馬とビールに造船、日本の"初めて"を実現したグラバー~

画像 龍馬のブーツ像 1995年建立。亀山社中門前のポケットパークに建っており、長崎港など長崎の町並みが望める。
歴史探訪路「龍馬通り」も近い。 (所在地)長崎市伊良林2-7-24
(問い合わせ)095-822-8888

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下士でも実家は裕福な龍馬。高級な生地で仕立てた羽織袴を着崩すスタイルが得意だったようで、当時にしては長身で大男だけにブーツ姿もキマっています。一方のグラバーも髭のイケメン。マント風の外套をふわりと羽織った姿はなかなかカッコいいですね。龍馬のマント好きはグラバーの影響かも?
進取の気風に富む龍馬は西洋の食べ物が好きだったようです。甘いものにも目が無くカステラは大好物で亀山社中でも焼いていたとか。ビール会社を手掛けたグラバーとはグルメという点でも一致したのでは?
グラバーはビール以外にも蒸気機関車の導入、炭鉱開発など日本の近代化に貢献。初体験を喜ぶ日本人を見て誰よりも楽しんだのがグラバーだったかもしれません。ちなみに長崎には、ギヤマン、凧、金平糖など長崎から始まる「長崎事始め」がいっぱい。

龍馬とお龍。グラバーとツル。女性に優しいのも二人の共通項

画像 絶えず人が訪れ、華やかだった旧グラバー住宅。器や調度品も往時を偲ばせて興味深い

画像 グラバーの一族。ツルとの間には娘・ハナが生まれた(グラバー園HPより)

画像 月琴をつま弾くお龍。勝気な美人だったと伝えられる

オペラ「蝶々夫人」はグラバーをモデルに、と思うのは間違い。日本人の妻・ツル(ツルとの結婚前に加賀マキとの間に男子・富三郎をもうけている)と最後まで連れ添ったグラバー。お龍と日本で初めての新婚旅行をした龍馬。どちらも愛妻家で、女性の意見もよく聞くフェミニストだったようです。
時代の扉を開ける気概に満ちた龍馬とグラバーは、元々古い慣習や価値観にとらわれず女性を一人の人間として尊重する感性が備わっていたのでしょうね。どちらも夫婦仲は最後までよかったようです。

愛妻家だったグラバー。 妻と一緒に長崎の墓地に眠る

坂本国際墓地 坂本国際墓地 大浦国際墓地がいっぱいになったため、明治21年(1888年)に開園した長崎で一番新しい国際墓地。長崎に長く滞在し、異文化の息吹を吹き込んだ外国人や、その家族が眠っている。グラバー夫妻の墓の隣には、息子夫婦が仲むつまじく眠る。 (所在地)長崎市坂本1-2
(問い合わせ)095-822-8888

時代が回天して武器が売れなくなったこと、諸藩からの資金回収が滞ったことなどから1870年、グラバー商会は倒産。けれど、しなやかにして強靭な精神力を持つグラバーは故国に逃げ隠れるようなことはしませんでした。家族と一丸になって、新しい日本の国づくりの一助となる多くの国家的事業に参画、政府の高官にアドバイスを与える役割を果たしていきます。
後年、東京に移り住み、三菱財閥の相談役として活動。1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されました。そんなグラバーを支え続けた妻、ツル。添い遂げた二人のお墓は坂本国際墓地にあり、息子夫婦のお墓も隣に。家族とともにもう一つの故国、日本そして長崎の発展を見守り続けています。