• 大浦天主堂と教会群
~人々の思いを結ぶ長崎の教会~ 世界遺産認定申請までの道のり

奇跡の街、長崎の今昔:南蛮貿易港として栄え、華やかなキリスト教文化が花開いた長崎。禁教期を経て明治以降、咲くのを待っていた花々がほころぶように建てられた教会群が醸成する景観は、キリスト教文化の影響を受けた土地ならではの異国情緒とそこに寄せた人々の思いに満ちています。現在、世界遺産暫定登録されている長崎。なぜ世界遺産に値するのか、そしてなぜ多くの人が長崎を訪れるのか。その答えは長崎の今昔にあります。答えの一つ、長崎の教会の歴史的背景と見どころを巡ってみましょう。

第1章「伝来、弾圧、そして復活。心の灯をつないだ遥かなる道」

沈黙の下に秘め続けた思いを知る…感動の旅へ。

250年もの長い禁教の年月を超えて歩んできた日本のキリスト教。布教の本拠地であった長崎にはその象徴ともいえる教会群が数多くありますが、長崎とキリシタンの歴史を振り返る時、信じる対象を持った人の思いが実に強いものであることが分かります。遠い地から異国に布教にやってきた者、弾圧されてもなお密かに信仰を子孫へとつないできた者。ここには人間がより人間らしく生きようとする崇高な魂があります。心の灯をつないだ遥かな道を辿る旅、ご一緒してみませんか。

明治12(1879)年に出津(しつ)に赴任してきたド・ロ神父と信者が力をあわせて建立した出津教会堂(長崎市)

信仰をさらなる純化へと導いた、二十六聖人が歩いた道

長崎駅から徒歩圏の西坂公園。ここは今から約400年前に日本で初めてキリシタンの大殉教が起きた場所です。1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発して10年後の1597年、京都や大阪で捕えられた宣教師や信者たち26人はなぜ処刑されたのでしょう。それも長崎まで1カ月かけて歩かされ、この丘で十字架に架けられたのです。
大殉教の引き金となったスペイン船サン・フェリペ号事件…。1596年、フィリピンからメキシコへ向かっていたサン・フェリペ号は台風に遭い土佐浦戸に漂着。その際の取り調べに当たった奉行に航海士が、「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信者を増やし、やがてその国を支配する」と述べたことから(真偽はさだかではない)、報告を受けた秀吉が激怒。伴天連追放令を理由に宣教師を捕えました。
でもなぜ処刑地が長崎だったのでしょう。禁教令にもかかわらず、長崎がキリシタンの町として栄えていたからでした。秀吉は自分の考えと力を知らしめるために長崎を処刑地としたのです。過酷な死の行進の果てに、多くのキリシタンへの見せしめとして。けれど26人は死を恐れることなく、信仰を貫く喜びを主に感謝しつつ昇天したと伝えらます。この事件は、その後の迫害に耐えるキリシタンたちの心の拠りどころとなりました。

殉教した26人がキリストに続く聖人として、列聖して100年を記念して1962年に建立された聖フィリッポ教会としレリーフ像

ザビエル来日。布教の本拠地として栄えた長崎

1549年8月15日。ローマ教皇の使節としてインドに派遣され布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した日です。翌1550年、ポルトガル船が初めて入港した平戸に赴き、領主・松浦隆信に布教を許されました。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりです。ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請によって20年後の1570年、長崎港が開港しました。
開港とともに、長い岬の台地に(現在の県庁裏が岬の先端だった)、新しい街が誕生しました。島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町,外浦町、分知(文知)町…。この6つの町が長崎における最初の町でした。集まってきた住民の大半がキリシタンであったといわれます。開港後、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りし、華やかなキリスト教文化が花開きました。
長崎の繁栄と反比例するように、(1563年にキリスト教に改宗していた)領主の大村純忠は周辺の領主や一族からの孤立を深めていきます。危機を覚えた純忠は、長崎をイエズス会に譲渡。ポルトガルとの貿易を重視していた近隣領主たちの攻撃を避ける計算があったと思われます。1587年、純忠病没。享年55歳。その純忠の死後、わずか1カ月後に秀吉の伴天連追放令が発布されました。

聖フランシスコ・ザビエル(1506~1552)

聖フランシスコ・ザビエル(1506~1552)

聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)
1506年、スペインのナバラ王国に生まれる。バスク地方のザビエル城で育ち、インド、東南アジア、日本にキリスト教の教えを広めるために生涯を捧げた。1550年、平戸にポルトガル船入港。船長は1541年にザビエルとともにインドへ渡航した人で、布教のために鹿児島にいたザビエルは平戸に赴いた。(写真:神戸市立博物館蔵)

1606年に発行された世界地図の日本図(部分)では、東よりも西が大きく描かれていて、日本の外交は西から始まったことを示すような日本列島の形が興味深い(長崎歴史文化博物館蔵)

ザビエルがやってきた当時のポルトガル船(ナウ船)の復元(日本二十六聖人記念館蔵)

弾圧の歴史。その幕開けから「島原の乱」まで

徳川時代の初期、幕府は朱印船や糸割符制度を創設して、外国との貿易を統制管理するようになりました。ポルトガルに加えて、オランダやイギリスも日本との貿易に参入、その拠点である長崎は大いに繁栄しました。キリスト教界にとって最も安定した時期といえるでしょう。

やがて、幕府のキリシタンへの不信を募らせる事件が起こります。一つは長崎沖に沈んだポルトガル船を巡る長崎奉行とイエズス会との対立、もう一つはキリシタンであった島原領主・有馬晴信と幕臣、本田正純の近臣・岡本大八の賄賂を巡るスキャンダルです。晴信は失脚、その子・直純は日向に転封されましたが、棄教を拒む多くの家臣は島原の地に残ります。
西日本に増え続けるキリシタン。弾圧を加えると信仰が深まり、信徒同士の結束が固くなることに幕府は頭を悩ませます。キリシタンと豊臣の残党が結びつく可能性もありました。1612年、ついに幕府は天領に禁教令を発布。続いて1614年、全国でのキリシタン摘発が始まりました。

美しい天守閣と島原藩やキリシタンの歴史が見学できる島原城(島原市)

改宗を迫って拷問や踏絵が始まった

禁教の取り締まりは厳しいものでした。幕府は長崎港の監視を強めて宣教師の潜入を阻止しますが、宣教師たちは密入国を繰り返しながら布教活動を続けました。やがて摘発と処刑は宣教師だけでなく、彼らをかくまった一般の信徒にも行われるようになりました。長崎、大村、島原などでは多くのキリシタンが命を落としました。
やがて幕府の弾圧は厳しい拷問によって棄教させる「転び」へと変化していきます。1616年、島原領主となった松倉重政は当初の黙認を徳川家光から叱責され、迫害へと転じます。拷問に雲仙地獄の熱湯を利用、額に切支丹の焼き印をつけるなど、弾圧はエスカレートしていきました。

雲仙地獄の拷問によって殉教した切支丹を慰霊する殉教碑(雲仙市)

改宗を迫って拷問や踏絵が始まった

1637年から1638年にかけて起きた「島原の乱」。島原・天草の領民3万7千人が、島原半島の原城に立てこもり、3カ月間の籠城の末、幕府軍によって老若男女全員が皆殺しになりました。宗教史上にも例のないこの悲劇はなぜ起きたのでしょう。島原藩主・松倉勝家の過酷をきわめた政治、凶作にもかかわらず強引な年貢の取り立てに耐えかねての蜂起といわれていますが、背景にはこの地域のキリシタン信仰がありました。
信徒たちの連帯が一揆軍の団結を強めたことは誰もが認める事実であり、実際に幕府が何よりも恐れたのはその団結力でした。キリスト教は国を滅ぼす…その国とは己の権力、己の統治を指します。自らの理想のために私利私欲を捨て、殉教も厭わない民と、そのように民を導いたキリスト教は支配体制を固めつつあった徳川幕府にとって排斥しなければならぬ大敵でした。

原城跡(南島原市)

近年の発掘調査によると乱後、原城は徹底的に破壊され、キリシタンそのものを封印するかのように人骨と石垣が混在して埋められ、土で覆われていた。全滅した村も多く、土地の荒廃を防ぐため幕府は小豆島や築後から領民を移住させた。キリシタンの取り締まりは諸藩への統制への強化であり、この後、幕藩体制は盤石となっていく。

原城跡(南島原市)

天草四郎

肥後国南半国のキリシタン大名、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。生まれながらにしてカリスマ性があり、聡明で、慈悲深く、容姿端麗と伝えられる。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化され、リーダー的な存在となる。1637年に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となり、戦場では十字架を掲げて軍を率いたと伝わる。乱後の生死は不明とも。(写真:島原市蔵)

天草四郎

改宗を迫って拷問や踏絵が始まった

島原の乱後、キリシタン取り締まりは制度化されて強化。1639年、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶、全国的な沿岸警備体制、九州大名による長崎港の警備も厳しくなり、ここに鎖国が完成しました。もはや宣教師たちの入国はどのような手段でもかなわず、幕末までの約250年間、キリスト教は日本のどこを見ても存在しない幻の宗教となりました。
深い沈黙の年月…その年月こそ様々な姿かたちに隠して、または変化させて信仰をつなぎ続けた隠れキリシタンが生きてきた時間でした。

外海地区(長崎市)大野教会/黒崎教会

外海地区(長崎市)大野教会/黒崎教会

江戸時代の初期、キリシタン禁制が強まる中、外海、浦上、天草などの信徒たちは仏教徒を装い、リーダーを中心に強い結束力で信仰を守り続けていた。江戸後期には外海地区にいたキリシタンたちが五島列島に移住、新しく潜伏キリシタンの集落を作っていく。

遠藤周作文学館

隠れキリシタンの里である外海地区は遠藤周作の著書「沈黙」の舞台となった場所です。文学館は遠藤周作ゆかりの品の展示がある。

(所在地)
長崎市東出津町77
(開館時間)
9:00〜17:00
[入館は16:30まで]
(休館日)
12月29日から1月3日
(問い合わせ)
0959-37-6011
遠藤周作文学館

沈黙の碑(出津文化村内)

オラショは隠れキリシタンの祈りの言葉

長い沈黙の下で密かにつながれてきた信仰。表社会では仏教徒として生活し、内面的にキリスト教を信仰する…これが潜伏キリシタンです。天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰の形を形作っていったのです。民俗的な習わしと混じりあって独自の宗教に変化したものもありました。明治になって禁教令が撤廃された後も、このような潜伏時代の信仰形態を継承した人々を隠れキリシタンと呼んでいます。

旧五輪教会堂(五島市)

旧五輪教会堂(五島市)

五島列島の久賀島にある教会堂で江戸末期、外海からのキリシタンが移り住んで潜伏した。1865年の大浦天主堂での信徒発見の後、信徒が次々と信仰を表明したため明治政府の弾圧に遭い、「五島崩れ」が起きた。元々は1881年、浜脇に立てられた教会堂だが、1931年に五輪地区に移築され、陸の孤島だった五輪地区の信仰の場所となった。1985年に廃堂となったが、今も信仰のシンボルとして地区の人々の心の拠り所となっている。民家風な素朴な雰囲気が郷愁をそそる。打ち寄せる波の音も祈りの声を想わせる。

次兵衛岩岩窟マリア像

次兵衛岩岩窟マリア像

市指定史跡。日本人司祭トマス次兵衛は、禁教令による迫害を逃れマニラに渡ったが、のち密かに帰国し、厳しい取締りのなかを変装して居場所を変え各地を宣教した。寛永14年捕らえられ、長崎で殉教したと伝えられる。次兵衛岩洞窟は外海の山中にあり、次兵衛神父が潜伏していた隠れ家として伝承されてきた場所。ここに記念碑としてマリア像が建立されている。
(所在地)長崎市神浦扇山町次兵岩403-4

中江ノ島(平戸市)

中江ノ島(平戸市)

禁教の時代に多くの隠れキリシタンが潜んだといわれる平戸島。神父不在の信仰組織をつくり、祈りの言葉・オラショを唱え、神棚に隠したキリストやマリア像を拝んで代々、信仰をつないできた。平戸島北西岸の沖合2㎞の無人島、中江ノ島は岩からしみ出す聖水を採取するお水取りの聖地。地域の人々はこの無人島を「サンジョワン様」と呼び、今も年に一度、荒波を越えて島に渡ってお水取りの儀式が行われる。

幕末の開国・信徒発見

幕末、ローマ教皇は日本の開国が近いと見て再び宣教師を送りはじめます。日仏修好条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになり、彼らの日曜礼拝のために横浜に続いて1865年、長崎の南山手にも鋭い尖塔を持つフランス寺—大浦天主堂が建てられました。この時点ではまだ禁教は続いていましたが、堂の正面には漢字で「天主堂」と書かれ、十字架が架けられました。
1カ月後、訪れた一人の女性が神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」とささやきました。禁教令から250年後、浦上の潜伏キリシタンと神父との再会…世にいう奇跡の「信徒発見」です。

大浦天主堂
信徒発見の碑

信徒発見の碑と大浦天主堂

信徒発見の舞台となった大浦天主堂はわが国最初の洋風建築として1933年、国宝に指定された。境内には信徒発見の碑をはじめ、外国人宣教師らによって建てられた旧羅典神学校や旧伝道師学校などがある。その歴史的価値が評価されて2012年に国の史跡指定となった。正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」。
(所在地) 長崎市南山手町5-3 (開館時間) 8:00〜18:00 (休館日) 無休
(入館料) 大人600円、中高生400円、小学生300円 
(アクセス) 路面電車「大浦天主堂下」下車、徒歩5分

禁教令解除

旧羅典神学校

旧羅典神学校

授業はすべてラテン語で行われた神学校。歴史的建造物として国の重要文化財に認定されている。
(所在地)長崎市南山手町5−3 (問い合わせ)095-823-2628

明治時代になり新しい政権に移っても、キリシタン弾圧は続き、浦上地区でも3000人以上が流罪になり、過酷な拷問を受けました(浦上崩れ)。この状況が変化したのが1873年。信仰の自由がない国は野蛮な国であるという諸外国からの軽蔑と圧力に対して、政府が禁教令を解除したのです。大浦天主堂には聖堂が建てられ、その後大正時代に入るとレンガ造りの浦上天主堂が完成しました。
やがて各地に教会堂が建てられていきます。長い長い冬の季節を耐えて春を迎えた花々のように。

コラム

そして誰もいなくなった…けれど

禁教令−時の権力者たちが恐れた信者の一致団結

天下人になりながらも盤石な体制には遠かった豊臣家。当初、秀吉はポルトガルとの交易の関連もあり、禁教令を徹底していなかったが、やがて信徒たちの固い結束がいつか国を揺るがす大きな脅威になると考えた。徳川幕府においては、キリシタン弾圧が幕藩体制の強化になるとして禁教を徹底。鎖国体制を完成、維持する上でもキリシタン弾圧は絶対に必要なこととした。いずれも権力を脅かすものとしてキリスト教および信徒の団結を恐れた。

後の信徒たちの心の拠りどころとなったヒーローたち

権力者たちが恐れた信徒の団結。その結束力を高めるカリスマ的指導者の多くは若く清廉な美青(少)年であった。棄教すれば命は助けると言われながら、つかの間の命と永遠の命は代えられないと断ったという二十六聖人殉教者で最年少のルドピコ茨木。殉教した年齢は何と12歳だった。同じく二十六聖人殉教者で捕らわれてからも説教をし続けた安土セミナリオ第一期生のパウロ三木。そして不死身とまで崇められた島原の乱の総大将・天草四郎。彼らの伝説は再会、復活までの250年間、隠れキリシタンたちの心の寄りどころとなったことだろう。

豊臣 秀吉

豊臣 秀吉

尾張国の下層民の家に生まれ、当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し次第に頭角を現し、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」から山崎の戦いに挑み光秀を破る。信忠の遺児・三法師を擁して織田家内部で勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。木下、のち羽柴氏に改め、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。通名は藤吉郎、 あだ名は「猿」や「禿げ鼠」。

徳川 家康

徳川 家康

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長、豊臣秀吉と並ぶ、三英傑の一人。 関ヶ原の合戦に幼名は竹千代。鎖国体制を固めていく上で禁教は不可欠とし、その意志と政策は秀忠、家光と継承され、幕末まで徹底された。

ルドビコ茨木(1585~1597)

ルドビコ茨木(1585~1597)
スケッチ/茨木舟越
(日本二十六聖人記念館蔵)

パウロ三木(1564~1597)

パウロ三木(1564~1597)
スケッチ/茨木舟越
(日本二十六聖人記念館蔵)

天草四郎(1621?~1638)

天草四郎(1621?~1638)
(写真:島原市蔵)

第2章:「心を洗う旅 ―五感で知る長崎市の教会の魅力」/長崎市にある教会の魅力について、もっと詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください。