明治41年(1908)2月3日、島根県松江市に開業医の二男三女の長男として生まれる。昭和7年、国立長崎医科大学卒業、昭和9年6月にカトリックに改宗した。
38歳で被爆する以前に、長年取り組んでいた原子病の研究により職業病といわれた白血病で、すでに2度も昏睡・重体に陥ったことがあり、被爆する2ヶ月前には、余命3年と宣告されていた。
昭和20年(1945)8月9日に勤務先の長崎医科大学付属病院で被爆し、右側頭動脈を切断され重傷を負うが、自分の体力の許す限り被爆者の治療に専念した。被爆後も、約1年半、医師として立ち働いたが、放射線被曝のため白血病は悪化し、闘病生活を余儀なくされた。
昭和23年(1948)3月には、「如己堂(にょこどう)」と名付けた2畳一間の部屋に2人の子どもと住み、原爆と医学、原爆と住民生活、復興への努力、浦上カトリック信徒の信仰などについて、病身を押して多数の著書※を執筆した。「原子爆弾など、核兵器の使用に対する絶対反対」と、イエス・キリストの「己の如く隣人を愛せよ」という言葉にのみ基づいて、科学者の立場から、世界の平和を訴える精神を貫いた。
「『己の如く・・・人を愛す。』言葉はまことにやさしい。しかし、いざ、このとおり行おうとすると、わが生命を棄てるところまでゆかねばならぬ場合もある。わが子よ、ここにこの句をあげたのは、言葉を教えたのではなく、これをそなたたちが一生の間、つねに行ってくれるように願ってのことである。人はともすれば、欲に心を奪われ、このもっとも大きな掟を忘れがちなものである。それゆえ私は、この私らの住む家に『如己堂』と名をつけた。わが子よ、如己堂に住む者よ、どうか家の名にふさわしい愛の一生を送っておくれ!これこそ、私のそなたたちに遺す言葉のすべてである。」(『いとし子よ』参照)
彼の功績を讃え、また闘病生活を見舞うために、床に伏してから亡くなるまでの3年の間に様々な人が如己堂を訪れた。昭和23年、ヘレン・ケラー女史、昭和24年には昭和天皇も足を運びになりお言葉をかけられた。同年、教皇特使ギルロイ枢機卿も見舞いに訪れ、その翌年、教皇からロザリオが贈られた。同じく昭和24年、長崎市長の表彰を受け、第一号の長崎市名誉市民の称号が贈られ、昭和25年には当時の吉田茂首相から表彰を受け、天皇からは銀杯一組を贈られた。それから約1年後の昭和26年(1951)5月1日、長崎医大で亡くなった。(享年43歳)
※ 永井隆著書 「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」「いとし子よ」「花咲く丘」「亡びぬものを」「村医」「生命の河(原子病の話)「乙女峠」「平和塔」「如己堂随筆」「原始野録音」「長崎の花」「原子雲の下に生きて」「私たちは長崎にいた」「世界と肉体とスミス神父」「野鼠」

